Birds of a feather!?



世界でもこんなに大勢の素人マイム芸人たちを一日中見ていられる場所はそうはないはずだ。かわるがわる老若男女がここに到着してはカメラに向かってパントマイムを始める。まさに人間に内在するドラマチックインスティンクト(劇的本能)をまざまざと見せ付けられた一日だった。フィレンツェからここピザに移動して、かの有名なピザの斜塔の下にたたずんで周りを見渡す。次々に訪れる観光客がなぜか皆一様に同じポーズをするのがおかしくて、斜塔よりもそちらの写真を取り捲った(爆)みなマイムの壁のポーズをとり、斜塔を支えようとする格好で写真を撮ろうとするのはホモサピエンスの普遍的な衝動なのだろうか!?おばあちゃんから、若者、男女の違いを問わず、また団体すらも含めてその無邪気さがおかしくてたまらなかった。みなマイムの「カベ」やってるじゃん!!このようにちょっと変わったきっかけ的な導入さえあれば、人間は簡単に想像力を刺激されて、身体を使って遊ぶようになるのだ。この導入のヒントこそ、教育演劇の手法の真髄だ。子供、若者の教育、いやすべての人々の教育にはこの「きっかけ」を与える導入になる味の素ならぬ、「遊びの素」が必要なのだ。さあ、みんな斜塔に向かってカベやってみよう(爆)

2009-03-10 03:49 | つれづれなるままに | コメント(3)

コロッセオにて

コロッセオで物思いにふけった。「マイム」の語源である「ミーモス」という言葉は古代ギリシャの時代より、おそらく一般的な役者、大道芸を含めた「演じる者」というような包括的な意味あいをもつ言葉だったといわれている。しかし、ローマ時代に入ってからナレーションや歌にあわせて無言で物語を舞う「パントマイム」という新しい出し物が起こったといわれる。ある伝説では、一人の役者が声を失い、自分の待者にせりふを言わせて、その内容を舞ったという物語が語り伝わっている。とにかく、このような円形劇場にてこのパントマイムは華やかなデビューを飾ることになる。いわゆるローマ帝政に入ってからの、一般庶民の気を政治からそらすべく頻繁に行われた「パンとサーカス」政策(出し物と食べ物の無料供給)の出し物のひとつだったのだろう。ぜひ見てみたかったのは演技者からの劇場の視点だ。コロッセオの演技舞台レベルから見た視点で写真をとってみた。これでは詳細な演技はまず観客には伝わらないだろう。したがって大きな舞が必要となるはずだ。このパントマイムは口の部分が閉じた(つまり台詞のいらない)面をつけて舞ったという。主題は神話やら悲劇などを中心とした悲劇が主な出し物だったという(一方のミーモスは主にコミカルなもの中心だった)。一時は権力者の間でもかなりの人気を博したという記録がある。
反面、このパントマイムという同名の出し物の中には、かなりグロテスクで淫猥なものもあったらしい。皇帝によっては、観客の興奮をさらに助長するべく!?本当の性行為まで行わせたり、実際の囚人を利用した処刑シーンなども演じられたようだ。しばしの間、この場所にてその展開の軌跡を思い起こしてみた。

2009-03-08 03:42 | つれづれなるままに | コメント

来た、見た、負けた!!

ローマに来て圧倒されつづけている。アメリカに慣れすぎたせいか、久々のカルチャーショックを受けている。頭の中が混乱して色々な考えが交錯する毎日。言葉に表そうとすると、すぐにその言葉が陳腐に響き、それを簡単に飲み込んでしまうような巨大な衝撃が脳裏を走る経験の連続。この国に来て改めて「芸術の教育的力」というテーマの深さに気づかされた。日々、教会、街中で接する聖書の世界、或いはそれ以外の聖人の姿。芸術家たちの想像力、創造性は確実にキリスト教自体のイメージをどんどん膨らませてきている。「尾ひれ」どころの騒ぎではなく、キリスト教は完全に芸術家たちのイメージによってトランスフォーメイション(変貌)を遂げてきたのが手に取るようにわかる。そしてそれが現代西洋人の様々なイメージの根源的な原像になっているはずだ。
その昔、聖書はラテン語でしか読めなかった時代。聖書がまだ聖職者だけの所有物だった時代。ルネッサンス期よりももっと以前、一般の人々はこのような芸術家たちの想像力をたよって聖書の世界、聖者の世界に接していたはずだ。そしてその荘厳さに心打たれ、畏敬の念を抱いたはずだ。勿論聖職者たちも同様に影響を受けたはず。初期の教会の彫刻から絵画、その他もろもろのオーナメントが日々の一般のイメージに貢献したその力は巨大だったのだろう。理論では知っていたつもりだが、この怒涛のような情報の渦中に身をおくとその効力がひしひしと肌で感じられる。まさにアルチュセールの主張した文化イデオロギー装置(“the Cultural Ideological State Apparatus,”)のごとくに、それは無意識のうちに日常に散在しながら人々の心の奥底からじっくりと、穏やかに、しかも確実に染み込むようにして、あるイデオロギーの再生産を促してゆく。これらのイメージがやがてローマ帝政後に来る中世の華やかな宗教劇に大きな影響を及ぼすことになる。そしてこの宗教劇はやがてまたルネッサンスの芸術家たちにインパクトを残してゆき、さらなる飛躍を生む。歴史とは人類の想像力のリレーのような、妄想の爆発のような気がする。妄想?無意識に使った言葉だが、実に妄想という言葉が一番だ。その妄想が次なる妄想を生んでゆく。いったい初期の、根源の宗教ってどんな形だったのだろうか。妄想を取り除いたところのキリスト教ってなんなのだろうか?妄想の無駄を省き続けたところにあるキリスト教の姿がみたい。こんなことを毎日考えさせられる。

2009-03-07 03:27 | ひとりごと | コメント