女子高校生のVoice

Voice とは英語で物理的な「声」という意味とは別に「主張、意見、訴え」、あるいは「発言権」という意味がある。Everybody has a voice. と言えば、みんな声を持っているというのとは別に、全ての人は発言権、あるいは主張をもっているという意味にも使われる。演劇は時としてこのvoiceを発信する極めて有効かつ効果的な手段となりえる。勿論、逆に使われれば、驚異的な洗脳手段とも成り得る。かつて戦争に徐々に歩を進めていた日本でも、学校に於いてこの演劇が軍国主義への子どもたちへの洗脳運動の一環として有効に使われた歴史がある。強制的な押し付けでなく、この演劇によって子ども達はワクワクしながら、そしてヒロイズムに感動しながら、「自らが楽しみながら」積極的に受け入れ同調してゆくのだ。かつてルイ・アルチュセールはこのような価値観の再生産のシステムを国家のイデオロギー装置(Ideological State Apparatus)と呼んだ。つまり演劇とは両刃の剣なのだ。
昨日は早稲田の期末試験の後、世田谷の某会館に直行し、このvoice発信の為の貴重な映像を見る事ができた。演劇によって福島県の女子高校生たちが震災地からの彼らの生の主張を舞台から発信し始めたのだ。演題は「今つたえたいこと(仮)」。あくまで現在進行形の事を扱っており、その体験者である彼らの主張も徐々に形を変えてゆくという事で「(仮)」だのだという。勿論、演技自体はまだまだ素人である。しかし、その言わんとしている事に今注目が集まっている。相馬高校放送局の女子高校生たちによる創作劇である。
出演者たちは原発事故の被災者達であり、そして事故後の多くの矛盾する政府の政策、あるいは無策に日常生活の中で翻弄されている福島県民の子ども達だ。彼らは日常を信じがたい高レベルの放射性物質の中で送る事を余儀なくされている。除染も無く、目立った復興は感じられない。こうした様々な矛盾、欺瞞、そして私たち県外の者の認識の甘さを彼ら女子高校生の語り口調で告発されると、大人はただただ絶句するしかない。「将来(私達の)子どもができたときに障害があったら、私たちのせいにされるの?」「国のお偉いさん達は『収束しました』の一点張りしてるけど、私たちの中では終わってないよ・・・。」「誰かお願いです!子どもの訴えを無視しないでください!今ある現状を忘れないでください」
こんな生の声を聞いたら政府の要人たちは、果たして彼女たちにも「ただちに健康には・・・」となるのだろうか。そんな自分の言葉で語れない大人たちと、こうして現状を自分の言葉で発信しようとする高校生とどちらが果たして大人なのだろうか・・・とつくづく考えさせられた夜だった。一体大人になるってどういう事なのだろうか。政治に携わるという事は自分の言葉で真実を語れなくなるという事なのだろうか。この真実の言葉のみで発信される演劇はこんな事を常に大人に問いかけ続けてくれる。同時に演劇という手段が実に有効に機能している事に喜びを感じた。表面的な復興という叫び声を糾弾し続ける相馬高校放送局頑張れ!

2012-07-24 06:59 | イベント | コメント(3)

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