文化に貴賤は無い!

20日の読売新聞「論点」に元イェール大学準教授のマイケル・オースリンという人物が寄稿した文章があった。その論旨に対して、またそれと同時に今の社会の風潮に関連付けて一言文句が言いたくなった。要約すればこういうことだ。つまり過去長い間、アメリカ人は版画や生け花、仏教などをはじめ、黒澤明監督の映画などすぐれた日本文化への関心を持ち続けた、そしてその文化を発信する日本という国を重要な国だと位置づけてきたが、昨今の状況が劇的に変わったという。その例として黒澤映画の代わりに米国の若者はアニメを見るようになり、アカデミアにおいても授業の内容に伝統的な文学などに代わって漫画を使用するクラスがでてきた。そして日本文化への関心がこのようなポップカルチャーになったという事実は米国人が日本の経済、政治といった側面について語らなくなったという事を意味すると同時に、日本のそういった側面で活躍できる米国側のエキスパートが少なくなるということであり、日本を重要視しなくなり、今後の日米パートナーシップに多大なマイナスの影響を与えかねないということだ。 確かに、この論文のある主旨は納得できる、なぜならば私の妻も上記のような傾向を肌で感じてきた一人であるからだ。彼女は97年より米国において日本語講師をしてきた。こういった日本の経済、政治に関する関心の薄れの傾向とポップカルチャーへの憧憬は彼女が最近まで教鞭をとっていたハーバード大学においても顕著に感じられたという。もっともこの傾向は実際にはバブルがはじけた直後あたりからじわじわと見え出していたそうだ。しかし、同時にこの文章の論旨の中には自分にとっては納得のゆかない、そして大きな偏見が見え隠れする多分に不快なものでもあった。つまり過去における日本の伝統文化や、近代の黒澤映画に代表されるすぐれた文化産物を称賛していると同時に、アニメ、マンガなどに代表される日本のポップカルチャーをその対極に据え、「軽さ、軽薄さ, 不真面目さ、重要でないもの」の象徴として位置付けているのが明瞭だからだ。声を大きくして言いたい。文化に貴賤は無い!! もしもあるとされたなら、それはあくまでも二つの原因によると信じている。それは、その文化を語るものの間違った先入観と、その文化を擁護するもの個人の人間としての質の問題だ。 上記の一つめであるが、まずポップカルチャーを語るものの問題である。アニメ、マンガなどのポップカルチャーを侮るのは、その深さを知らないものが先入観と限られた知識の中でそれらを自らの論旨に都合のよいように定義しているからに過ぎない。自分もポップカルチャーに精通しているわけではないが、あくまでその深さ、多様さを垣間見るときにこれらの文化の水準は他の伝統文化に決して劣るものではない。ただその語り方や切り口が違うだけだ。もう一つの貴賤さを連想させてしまう原因があるとすれば、その文化を紹介し擁護する人間の質の低さだ!たまたまある文化を擁護した人間の質が低いからといって、その人間の質と文化自体の価値、この二つを絶対に混同してはならない。 最近の週刊誌の中吊り広告の見出しだけを見てもこの二つ(文化自体の質とそれを擁護する人間の質)が大きく同一視されているのに大きな憂いを感じている。そしてそれが一つ目の「文化を語るものの先入観、偏見」によって更に大きく歪められている現状がある。たとえば、いま現在の週刊文春=(漢字だけではない、麻生太郎の「マンガ脳」)、週刊新潮=(マンがばかり読んでいるからだ!・・・「おバカ首相」麻生太郎)、これらを始めとしたマンガへの先入観を悪用したプロパガンダ的な言説を助長するような文章が横行している。つまりこの場合は漫画という文化を擁護し愛読する主体の質が問われるべきであるのに、それがマンガという文化に対する攻撃そのものとなっている。これは伝統的な学校教育の体制側からの偏見的な視線によってマンガ=知識の欠如、低能などという図式を強調されることによってこの二つを同一視するように仕向けられているのだ。そしてこういったチャンスを逆手にとり、マンガ過小評価に走る人間ほど自らの中に無意識のうちにしみ込んでいる学校教育弊害を正当化しながら、自分はその外にいることで安堵を感じているのだろう。 ここであえてもう一度言いたい。マンガおよびその他のポップカルチャー自体の質がそれによって過小評価されてはならない。実際にマンガを知るということは今の世の中の物事の受け止め方を知るという大切な方法であり、またこういったポップカルチャーの中には斬新な学びの要素が多く潜んでいるのだ。IQベースの従来の教育制度にどっぷりと浸かってしまった日本人。これらの制度の中ではマンガはご法度であった。言ってみれば従来の教育制度の中では、これらポップカルチャーはまさに戦時中の英語のような敵国語としての位置づけだった。しかし、これからの若者のポテンシャル、潜在的可能性を信じたい人々には自らの中に無意識にしみ込んでいるこういったポップカルチャーに対する先入観に盲従せずに、まずはご自分の目でそれらの奥深さを確かめてもらいたい。そして米国の若者が、いや世界の若者がこういった日本の今の感性を知ってくれるということは今までの建前だけの外交ではなく、より日本人のメンタリティーや感受性を理解した上での付き合い方の指標として役に立つことは確かだと思うのだがいかがだろうか。ちょっと硬かったかな?苦笑

2008-11-21 12:39 | ひとりごと | コメント(2)

ボローニャへの道

イタリア、ボローニャで来年3月に行われる国際会議でのシンポジウムにカンジヤマの論文の内容の一部がノミネートされる可能性がでてきた。低年齢の児童と演劇についてのシンポジウムなのだが、そこへの基調論文としての話がきた。ん~、恥ずかしい告白をしてしまうが、自分は今まで演劇史などを教えてきてはいるものの、ヨーロッパへ足を踏み入れたことがないのだ!今まで散々ギリシャ、ローマの劇場遺跡、中世の演劇テクニック、ルネッサンス期のステージテクニック、エリザベス朝の劇場構造などを映像、写真、本などで事細かに研究しては来たのだが、実際にそれらの場所を訪れたことがない。つまり頭でっかち(涙) いよいよ遅れてやってきたチャンスかもしれない。そういえば昔、Good Will Hunting という映画があったのを思い出す。マッド・デイモンがハーバード大学在籍時代にシナリオのクラスで書き上げたものが原作となっているが、この中で偉大な量の知識を有する天才少年ウィルがその知識をひけらかす時に、心理セラピスト、ショーンに扮するロビン・ウィリアムスがいったセリフがある。「おまえは何でも知っているだろう、知識においては。しかし例えばルネッサンスを象徴するイタリアのシスティナ礼拝堂のあの中の空気を感じたことがあるか?あの匂いを嗅いだ事があるのか。あの中に立った時の身体で感じる感覚をしっているのか」(のような感じのせりふだったと思う) この言葉がずっと自分の頭の片隅に残っていた。知識はしょせん知識なのだ。それを体得したり、体で感じるのはまた別の次元での学び。そろそろアメリカからヨーロッパへ視線を変えなくてはならない(遅すぎるかな、汗) とにかく、どう結果がでるかわからないが、もしこのノミネートが実現したら、いよいよイタリア散策だ!!今まで知っていると思っていたことすべて体感できたら幸せだ!

2008-11-18 08:17 | つれづれなるままに | コメント

古今亭志ん輔師匠の会

12日は国立能楽堂にてプロジェクトSI主催の狂言、オペラを巧みに融合したリア王を観劇した。ものすごく勉強になる。伝統的なスタイルが原作をよりダイナミックに表現できる場合と、その様式が逆効果になる場合とがある。もちろんほとんどの場合それはものすごく効果的に使われていた。が、しかし、逆に伝統芸能がその型を外れて自由な演技をしようとした時に起こる落差のようなものをも感じた点がとても興味深かった。リアの発狂のシーンが自分であれば、より形式的な演出にしても面白かったかなとも思った。なにしろこの壮大なプロジェクトはまだまだ始まったばかり。六月のハムレットに続いて今回のリア王、そして来年のオセロと本当にエネルギッシュな翻案を試みる早稲田大学の関根教授に脱帽。 昨日は早稲田の授業終了後国立演芸場へ。古今亭志ん輔師匠の会にゲスト出演。以前のブログにも書いたが、この師匠の「子はかすがい」という落語を初めて聴いたときの感動は本当に衝撃的なものだった。その後何度聞いても自分はおお泣きしてしまうのだ、この師匠のこの噺には!!今回も本当にいろいろな試みをされていらっしゃり、刺激的だった。普段の地道な精進がうかがえる。自分は甘いなと思った。 国立演芸場に入る直前に大劇場の脇に、それはそれはものすごく大きなまん丸の月がでていた。これも感動!急いで携帯で写真をとったが、やはりそれは携帯写真、残念ながらその美しい姿は撮れていなかった。やはり芸でも月でも生が一番!! 写真はその時の携帯写真です。 

2008-11-14 11:40 | ひとりごと | コメント(2)