コロナ休暇の徒然なるままに 映画その4

さてさて元NHKエグゼクティブアナウンサーの村上信夫さんよりバトンを頂きました。第4日目は、これです。映画を語る時、自分の職業上絶対に避けられない映画。「天井桟敷の人々」です。 僕がパントマイムに初めて出会ったのが大学一年生の時。それまで僕はパントマイムという言葉すら馴染みがなかったし、演劇には縁もゆかりもなかった。初めてみたマルセル・マルソーはあまりに斬新な舞台表現だった。あまりの衝撃に舞台を見た後、しばらく席を動けなかったのを思い出す。そして、その後大学の授業などすっかり忘れて、このマイムという芸術について調べものをする日々が続く。そんな中、出会ったのがこの映画。なんと、マルソー自身が師事した二人の大師匠たちが出演している映画なのだ。主演、バチスト役を演じるジャン・ルイ・バロー、そしてその父親役を演じるエチエンヌ・ドクルー(写真参照)。マルソーはこの二人に師事してマイムの基礎を学んだ。というか、現在世界を席巻している現代マイムのテクニックの基礎は実はすべてこの二人の大師匠のコラボレーションによって1931~33年に創作されたものだったのだ!!(つまりそれ以前には、例えばカベとか綱引きなどのテクニックは存在しなかったのですよ!!) しかも、この映画の主題は「ピエロの誕生」!世界で使用されているピエロ(日本でいうサーカスのピエロとは違う”!サーカスの道化は本当は「クラウン」といわねばならないのです)のデザインの源泉はここ、この1820~40年代のフランス、パリに遡るのです。勿論、この映画の主題であるデビュローの恋愛はフィクションですが、時代設定からデビュローという人物、そして彼が起こしたピエロブームは歴史的事実に基づいているのです。 ボヘミアからフランスに流れてきたデビュロー芸人一家。その一家がフュナンブル座と契約を結ぶ。その際、この後にバチストとして有名になるジャン・ギャスパード・デビュローは家族のお荷物であり、ついでに契約を結ばれたようなマイナーな役者だった。しかし、1818年のある日、舞台上でピエロを演じていた役者が突然出演できなくなり、仕方なく、最後の手段としてデビュローがピエロの代役を担うことになる。だが、彼の独特のバチスト・ピエロはその夜伝説的な大ヒットとなり、パリの街には一大ピエロブームが起こる。やがてそのブームはパリの知識層、文化人仲間にまでおよび、例えばヴィクトル・ヒューゴやエミール・ゾラ、そしてシャルル・ノディエなどがこぞってフュナンブル座に足繁く通うようになる。(以上は歴史上の事実であります)。 この映画はデビュローの死後百年を記念して1946年に作られました(デビュローは1846年没)。また面白いのがこの時代の背景。当時政府は中央の主流の演劇を支えるべく、場末のフュナンブルなどの劇場に様々な理不尽な規制を設けていたのです。例えばこの時代よく課せられたのは、場末の劇場(これをフェアグランドシアターといいますが)は役者は舞台上でセリフを喋ってはいけないのです!!そして舞台への登場はアクロバット、もしくはその他の芸を使って登場せねばならないなどの過激な規制でした。(例えばこの劇場の名前、フュナンブルとは綱渡りを意味し、文字通りこの劇場ができたころは役者たちは全て綱渡りしながら舞台に登場したとか、、、、)ですので、もし関心ある方は、劇中、デビュローが恋するギャランスに舞台上で見取れている時に、デビュローの許嫁の女性が舞台上で「バチスト!!」と声を上げてしまい、会場は大混乱となります。なぜならこれが中央政府に見つかったら、劇場は閉鎖を命ぜられるからです!!別の言い方をすれば、これらの諸事情により、当時パントマイムが(セリフが無いゆえに)大ヒットとなったという事も歴史的事実なのです。 パントマイムを習い始めた僕は、いつか僕もこのバチストのようなピエロになりたい!!こんな情熱を常に胸に秘め、毎日大学の授業をさぼりながらパントマイムのレッスンに励んでおりました!僕の憧れの映画です。

2020-05-20 12:11 | つれづれなるままに | コメント

コロナ休暇の徒然なるままに 映画その3

私の三日目の映画は柴田昌平監督のドキュメンタリー映画「ひめゆり」。沖縄戦における、ひめゆりの生存者の方々が生の声によりその体験を包み隠さず、正直に話して下さるドキュメンタリー。その内容はあまりにリアルで、、、そして聞いているうちに不思議なことにあまりのリアルさに、それらがシュールに思えてくるのだ。でも本当のリアルというのは、その現実を肌で知らない僕らにはシュールに聞こえるのは当然なのかもしれない。つい前日まで学校の校庭で仲間と戯れ、将来の夢に胸を膨らませていた14歳から19歳の少女達。その少女達が送られた世界は想像を絶するものだった。その凄まじい医療現場の描写が淡々となされる中、何もない病院の施設で脚や腕を片っ端から切断される重症患者を押さえつけ、そしてその切断されたばかりの腕や脚を捨てる為に持ち運ぶ悲惨な現実を描写しつつ、それらが現実には徐々に麻痺してくるのだという。これ以上の描写は避けるが、もう、これはこの世の生き地獄だ。よくもこれだけ辛い思いを話してくださった。嫌だったに違いない。思い出したくもなかったに違いない。この映画のポスターにも書かれているが、「忘れたいこと」を話してくれてありがとう。本当だ!!僕は心の中で手を合わせながら感謝していた。これは僕らが今まで全く知らなかった事。もしかしたら一生知りえなかった事だ。しかも、これらは僕らが知らなくてはならない事なのだ!なぜなら現実にこの国に起こったことであり、誰もそれを今まで生の声で伝えてくれていなかった。今日まで幸せな僕らが明日はこういう状況にならないという保証はない。本当に貴重な証言だ。そしてこの純粋な、あまりに純粋な若い少女たちを襲う最後の軍からの指令、、、各自自由解散。本当に知らなくちゃ!!これがこの国のやり方であり、今も全く変わっていないのだから!!実はこの映画、5年前から息子と二人で必ず6月23日、つまり沖縄戦終結の日に一緒に見に行っているのだ。息子も日にちが近づくと、そろそろだねと誘ってくる。それくらいこのひめゆりの人々の証言に心を揺さぶられ、ややもすると「平和」という事を当たり前のように思ってしまう麻痺感覚を正してくれるのだ、この映画は!!帰りの電車で毎回息子と長い長い話をする。珠玉の時間だ。 実は事の始まりは6年前、息子が9歳だったころだった。3月10日の東京大空襲の日にNHKスペシャル特集ドラマ「東京が戦場になった日」をたまたま家族で見ていた。ドラマの内容はまさに東京大空襲で、あまり知られていなかった若者たちの悲劇を描いたものだった。帝都防災のために、「学徒消防隊員」(軍隊へ兵役猶予されていた理科系及び医系の学生)や「年少消防官」(18歳未満の少年)として駆り出され消防署に勤務させられた若者たちが、なんの訓練もなく当日空襲の中奮闘し、そして無残に犠牲者になって散って行くという物語。気が付くと、物凄い炎に包まれた東京を映す画面を見ながら、息子が目を真っ赤に腫らしながら大粒の涙を流し、テレビに向かって指をさし、大声でアメリカをののしっていた。9歳の息子がだ。「お前らアメリカ人をみんなぶっ殺してやる!バカヤロー!!」その声は震えていた。ちなみに息子はちょうど私が論文を書いていたころ、ボストンの病院で生まれたのでアメリカ国籍も持つ。だから余計に複雑だったのかもしれない。 これは大変だ!と事の重大さに気づいた僕は、その年を家族で戦争を考える年とすることに決めた。何故ならば僕の学問の専門は教育演劇学。実際に行動し、やってみて学ぶ方法論だ。もしこの状況をハンドルできないのなら、僕はこの学問を無駄に学んだ事になる。そう思った。三月の春休みにまずは鹿児島の知覧へ行き、特攻隊の展示などを見て回った。ちなみにそこを訪れた3月26日がなんと最初の特攻機がここから飛び立った日だと案内の方に教えられ、そして彼らが書き残していった手紙を読みながら家族で考えた。息子は混乱していた。そして5月の連休には沖縄を訪れ、豊見城市の旧海軍司令部壕から始まり、ひめゆりの塔、そして首里城の第32軍司令部壕跡などを回ってみた。沖縄戦を読みやすくした漫画、新里堅進さんの「沖縄決戦」を読み、比嘉 富子さんの「白旗の少女」を息子と一緒に読んだ。そして、この一連の学びの最終章として、夏休みにはアメリカに渡り、ウィスコンシン州の友人を訪ねた。ちょうど教育演劇の学会がミルウォーキーで開催されたのだ。アメリカの親友たちとしばらく過ごし、息子の誕生日(実に彼の誕生日は8月15日なのだ!!)を一緒に祝ってもらう。息子は混乱の連続だった。こんなに優しいアメリカ人と何故日本は戦わなくてはならなかったのか。なぜ優しい人間たちが悪魔のようになってしまうのか。、、、、などなど。その帰りにハワイへ寄り、パールハーバーを見学。戦艦アリゾナで真珠湾攻撃の悲惨さを学び、そしてその裏にある博物館にて終戦の際、日本が降伏文書に調印した船、戦艦ミズーリを訪れた。行く先々で息子と話しあい、戦争が何故起こるのか、そしてそれによって犠牲になるのは誰なのかを徹底的に話しあった。そしてミズーリの船上で、特攻に失敗した日本兵の若者が船長の判断により船員たちに懇ろに葬られた美談をききながら、実はこのミズーリ―号も沖縄戦においては沖から常に艦砲射撃をしており、例の「白旗の少女」などの周辺にその爆弾が被弾していたのだという事を考える。複雑だ。人間は置かれた立場により、まったく変わった方向性をもってしまうんだ。 息子は夏休みの終わりに、長い長い日記を書き終えた。そしてそこには大人も注目に値する考えが沢山ちりばめられていた。その翌年、沖縄戦の終結の日にたまたま上映会を知った僕が映画に行こうとすると、息子が「僕も行きたい」といってくれた。まだ10歳、、、果たして、、、と思ったが、でも彼はもうすでにたくさん学んでいたので大丈夫と思い、それ以後この映画は二人の自分たち自身に対する戒めの思いと、語り部の皆さんに対する感謝をするために訪れている。

2020-05-15 12:09 | つれづれなるままに | コメント

コロナ休暇の徒然なるままに 映画その2

元NHKエグゼクティブアナウンサーの村上信夫さんより映画バトン頂き、第2日目です。 今回は、「天平の甍」1980年版。1957年の井上靖の歴史小説を映画化したものです。僕はこの映画に非常に影響を受け、その後の生き方を変えられたといっても過言ではありません。この映画を見たとき、僕は仏教の「戒」というものに関して初めて真剣に考え、そして勉強しました。その約十年後に自らインドのブッダガヤ(釈尊がその下で悟りを開いたとされる菩提樹がある)を訪れ、菩提樹下で受戒をするという経験に繋がっていきます。 もともとインド(天竺)で発生した仏教には釈迦が説いた教え(経)と共に、釈迦が弟子たちに課した戒律(戒)というのがありました。その戒を釈迦より授かり、自分が仏教徒として生きてゆくという宣言をした時点から人は釈迦の弟子として仏教徒となります。つまり、クリスチャンが洗礼を受け、洗礼名を頂いて正式なキリスト教徒として生きてゆくのと同じことです。つまり、戒名とはクリスチャンネームならぬブッディストネームなのです。ゆえに、日本の社会の現状のように死後、高額なお金を払って遺族がお坊さんから名前をもらうというものではなかった筈。このことを深く考えさせられたのがこの映画でした。 当時の日本(天平の時代)には日本には釈迦の教え(経)は伝わってはいたが、その経に従い生きてゆく上での約束事(戒)を授けられる専門の僧の存在が皆無でした。勿論、従って戒律を授かる戒壇という設備もない。そこで大陸より、授戒できる高僧を招聘せよという聖武天皇からの命を受け、第九次遣唐使で大陸(唐)に渡った若い留学僧たちの話です。 普照(中村嘉葎雄)と栄叡(大門正明)は命がけで大陸に辿りついた後、様々な寺を訪れ、日本に戒律を伝えるべく同行してくれる僧を訪ね歩くが、当時国禁を破り自らの命を懸けて海を渡ろうとする僧にはなかなか会う事ができなかった。そんなある日、742年、二人は揚州の大明寺の住職であった鑒眞(鑑真)のもとを尋ねる。多くの弟子に鑑真は渡日の希望を尋ねるが、危険を冒してまで渡日を希望する者は誰一人としていなかった。すると鑑真が自ら同行しようと名乗りでる。真の教えを命を懸けても布教する仏教の本来の布教の精神を遂行する為だと、、、それに心打たれた21人の僧も同行を希望する。だが、5回、出国を試みるが5回とも密告、難破などにより出国に失敗する。 僕は、もともと遣唐使、遣隋使に憧れていたのですが、それに加え、この経験の少し前に出会った新渡戸稲造の「太平洋の橋になりたい」という言葉、つまり異文化にかける橋になるという夢を持っていました。そこでこの遣唐使の話に興味を持ち、映画を見たわけですが、インパクトはそれ以上のものがありました。こののち僕は鑑真和尚の由来の寺である奈良の唐招提寺を訪れ、鑑真和上に心より御礼を申し上げました。現在では入手が困難なようですが、この映画はお勧めです。真の仏教徒の生き方が見事に表されています。

2020-05-12 12:03 | つれづれなるままに | コメント