永六輔師匠と その十

いくら書いても書き尽くすことができない。書けば書くほど、永さんとの思い出が次から次へと込み上げてくる。ある時ふと永さんからハガキが来る。そして思いもしないところへお誘いを受ける。芸はもちろんそれ以上の人生について様々な事を学ばせて頂いた。だから永さんは僕の人生の師匠であり、メンターなのだ。今回はその中でも自分に衝撃的だった事の一つを書いてみようと思います。 突然いつものごとく永さんよりハガキが、そして午前中のラジオの収録が終わった頃、TBS前で永さんと合流。そのままカンジヤマの車にて出発。というか、それまでは単にTBS前で待ち合わせということのみ知らされていただけだった。車に永さんが乗り込まれてから行先を知らされる。小金井に行きます。着いたところは小金井の桜町病院。聞いたことなかった。ただ車の中で、『ホスピスに行きます」とだけ話された。確か平成元年の頃だったと思います。 当時から永さんは僕が根っからの仏教信者だということをご存知だった。インドブッダガヤへ行き、その後仏跡巡礼をした時も永さんにご報告し、また様々な仏教関係のお仕事もかなり意識的にお誘いを頂いた。そしてその仏教的な思想を奥の細道になんとか生かしてゆきたいと葛藤していたことも永さんはご存知だった。そのせいか、こういった人の生死にかかわる場所には随分とご一緒させて頂き勉強させて頂いた。今現在の桜町聖ヨハネホスピスはとてもきれいだが、当時はまだ桜町病院の一角で始まったばかりの小さな小さな病棟だった。 当時のこの施設の責任者の医師、山崎章郎さんは「病院で死ぬということ」という本を出し、大変話題になっていた。癌とは最後まで抗がん剤で苦しみ戦い続けていた日本の当時の医療現場に、QOL(クオリティーオブライフ)という斬新な考えを提唱し、終末医療の必要性を解いていらした方でした。この山崎先生と永さんとの手紙のやり取りでこういう事が始まったらしいのです。 薄暗い本当に小さな病棟で、それこそあまり動き回るスペースもない病室の一角で、癌患者さんたちを前に、永さんは明るくいつものお話しをされ、徐々に患者さんたちの顔がほころびて笑いになってゆくのを僕らは確実に感じていた。まさにQOLだ。笑いながら時を過ごす。そしてその後僕らは永さんの紹介で、いつもの話芸マイムの後に「奥の細道」の一部を披露させて頂いた。これも永さんの話芸なしでは無理だったろう。何しろそこにいらっしゃった皆さんはご自分たちの死期を確実に感じていらっしゃるのだから。それでも皆さん本当にさわやかな目つきでご覧になっていらっしゃった。当時の事を永さんは「どこかで誰かと」というご著書に書いていらっしゃった。(以下同署118ページより) 奥の細道 小金井・カンジヤマ・マイムさん 若いパントマイムの二人と、小金井のホスピスで公演。 人間、死ぬのは承知の上だが、実際にその死を受け止めて生きている患者と終末医療のスタッフには本当に頭が下がる。 病棟には30代の患者もいて、考えれば辛いことばかりだが陽気に振る舞う。 「奥の細道」をマイムにしているカンジヤマの二人も、爽やかな態度で、大いに楽しませていた。 僕は「奥の細道」を朗読したのだが、芭蕉が感じている旅での死の影が敏感に伝わってきて困った。 そこに、いずみたくサン、中村八大さんが重なってきて、終わってから「奥の細道」をこんな状況で読めた事に感動。 カンジヤマ・マイムの二人も、いつもよりグッタリしていた。(以上転載) このご縁を頂いてからちょうど6年後の平成6年に桜町病院の病棟とは別に新しい独立した新築の素晴らしいたたずまいの聖ヨハネホスピスが完成する。そしてその完成、開館の式典に永さんと永さんのTBSのラジオパートナー遠藤泰子さん、そしてデュークエイセスという豪華なゲストの末席に私達カンジヤマ・マイムも加わらせて頂いたのだ。感激だった。人生最後の時間を抗がん剤で苦しんで生きるしか選択肢の無かった時、このような施設ができ、自分の最後の大切な時を愛する家族や愛する仲間と会話しながら、笑いながら過ごす事が出来る施設だ。そう、痛みだけを確実に取り除いて。今でこそ日本にはホスピスは沢山出来ているが、当時はこんな素晴らしいホスピスは稀有だった。 その後カンジヤマは毎年年末ごとにこの施設を訪れてわずかながらの収入の一部を寄付させて頂く事でお手伝いするようになったのだが、ある時など、丁度訪問した時にホスピス内で結婚式が行われようとしていた。末期癌に侵され、余命わずかな母親にご自分の花嫁姿を見せたいと、娘さんがあえてホスピス内で母親の見守る中、結婚式を行っていらしたのだった。急な事にびっくりしたが、先生方にお願いされて突如、挙式後の宴会に飛び入りで芸を披露させていただき、未熟ながらほんの少しの笑いをご家族にプレゼントできた事も今では素敵な思い出だ。これも永さんのお蔭!!!訪れるたびに様々な事を学ばせて頂いた。こんな人生勉強もさせて頂いておりました。永さん、ありがとうございました。合掌

2016-08-09 07:28 | つれづれなるままに | コメント(2)

永六輔師匠と その九

今日8月3日は朝から明治大学の中野キャンパスに於いて午前中授業を受け持った。平成二四年度文部科学省選定「大学間連帯共同教育推進事業」国際協力人材養成プログラムという、ものすごい響きの!?プログラムの第一回講義ということで Education and Global Issues という講座のなかで教育と演劇の関係についての授業。実際に学生さん達に実体験を通じて学んでいただいた。「大学間連帯共同教育推進事業」という名の通り、この講座の参加者は立教大学と明治大学の学生がともに受講していた。いつも教えている早稲田とはまた違った雰囲気のなか、三時間を英語による教育演劇の授業を行った。もともと教育と演劇、教育と遊びをくっつけて考え始めたのはやはり永さんとの旅がきっかけだった。(詳しくはその二をご参照ください)。英語の授業だったのだが、どうも僕は早口になってしまう傾向があり、学生さん達に少々難儀だったかもしれない。でもみな一生懸命に参加してくださり、とても充実した、楽しい時間を過ごせた。 帰りに書店により、今日ぴあから発売された『笑点 五十年史1966‐2016』という本を購入。演芸コーナーの常連としてマイムを代表してカンジヤママイムが写真入りで二か所にわたり掲載されていた。もともとこの笑点や演芸場にご縁を頂いたのも永師匠のお陰だ。そして、以前永さんとの思い出のその三でもお話ししたように永さんは娘さんのTV出演はもちろん、私たちカンジヤママイムの出演番組でさえ、ちゃんとご覧になってくださり、そして短い、でも優しいハガキやメッセージを下さるのでした。演芸とパントマイム。このリンクは永さんによってつながれたといっても過言ではありません。(下の写真は、カンジヤママイムテレビ出演の旅に下さった永さんからのメッセージの一つです。)

2016-08-03 09:17 | つれづれなるままに | コメント

永六輔師匠と その八

前回に引き続き, 永さんとの全国の旅の一場面を、永さんご自身がその著書でご紹介頂いた一節です。以下、永六輔著『あの町この人その言葉』137ページより 「カンジヤマ・マイムと山形で」 パントマイムのデュオ。作品のなかに「奥の細道」がある。この日、大阪で芭蕉真筆の発見。せっかく山形にいるのだからと、山形編をリクエスト。「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」「五月雨をあつめて早し最上川」などなど名句をパントマイムで。 「パントマイムのパンはパン・パシフィックのパン、ピーター・パンのパンです。すべてという意味もありますから・・・」 この二人、寄席にも、子供たち相手にも品があって好評。 「奥の細道」山形編は山形でも絶賛。司会者として鼻が高かった。 そして、「奥の細道」を「黙の細道」と紹介。(引用終わり) この時、たしかカンジヤマ・マイムはちょうど山形を旅公演していた時で、永さんがそれを聞きつけ、私たちをお誘いくださったのだ。未熟な芸ではあるが、それを永さんが司会で面白可笑しく紹介してくださるとお客様もいつも以上に興味をもって見てくださるのが凄いと思う。自分はこの話芸が習得したくて仕方なかった。いつもこの永さんの話芸には感服だった。山形での俳句マイム。思い出深いものがある。 実はカンジヤマ・マイムが旅人として初めて、よみうり、日本テレビの「遠くへ行きたい」に出演した第一回目もこの山形の旅だった。一番最初にべに花染め農家を取材したときに、農家のおばあさんたちの山形弁がさっぱりわからなかったのを思い出す。取材し、質問したのに、その返ってきた答えがまったく理解できないでいた。するとディレクターが、「そのままきいてうなづいて!」というので、そうさせていただいたのだが、後でちゃんとテロップが付いていたのに納得(笑)いろいろと学ばせて頂いた。山寺でせみの俳句をマイムで詠み、そして最上川にて五月雨を~をマイムで詠んだ。なんという幸せ!!

2016-08-02 12:17 | つれづれなるままに | コメント