来た、見た、負けた!!

ローマに来て圧倒されつづけている。アメリカに慣れすぎたせいか、久々のカルチャーショックを受けている。頭の中が混乱して色々な考えが交錯する毎日。言葉に表そうとすると、すぐにその言葉が陳腐に響き、それを簡単に飲み込んでしまうような巨大な衝撃が脳裏を走る経験の連続。この国に来て改めて「芸術の教育的力」というテーマの深さに気づかされた。日々、教会、街中で接する聖書の世界、或いはそれ以外の聖人の姿。芸術家たちの想像力、創造性は確実にキリスト教自体のイメージをどんどん膨らませてきている。「尾ひれ」どころの騒ぎではなく、キリスト教は完全に芸術家たちのイメージによってトランスフォーメイション(変貌)を遂げてきたのが手に取るようにわかる。そしてそれが現代西洋人の様々なイメージの根源的な原像になっているはずだ。
その昔、聖書はラテン語でしか読めなかった時代。聖書がまだ聖職者だけの所有物だった時代。ルネッサンス期よりももっと以前、一般の人々はこのような芸術家たちの想像力をたよって聖書の世界、聖者の世界に接していたはずだ。そしてその荘厳さに心打たれ、畏敬の念を抱いたはずだ。勿論聖職者たちも同様に影響を受けたはず。初期の教会の彫刻から絵画、その他もろもろのオーナメントが日々の一般のイメージに貢献したその力は巨大だったのだろう。理論では知っていたつもりだが、この怒涛のような情報の渦中に身をおくとその効力がひしひしと肌で感じられる。まさにアルチュセールの主張した文化イデオロギー装置(“the Cultural Ideological State Apparatus,”)のごとくに、それは無意識のうちに日常に散在しながら人々の心の奥底からじっくりと、穏やかに、しかも確実に染み込むようにして、あるイデオロギーの再生産を促してゆく。これらのイメージがやがてローマ帝政後に来る中世の華やかな宗教劇に大きな影響を及ぼすことになる。そしてこの宗教劇はやがてまたルネッサンスの芸術家たちにインパクトを残してゆき、さらなる飛躍を生む。歴史とは人類の想像力のリレーのような、妄想の爆発のような気がする。妄想?無意識に使った言葉だが、実に妄想という言葉が一番だ。その妄想が次なる妄想を生んでゆく。いったい初期の、根源の宗教ってどんな形だったのだろうか。妄想を取り除いたところのキリスト教ってなんなのだろうか?妄想の無駄を省き続けたところにあるキリスト教の姿がみたい。こんなことを毎日考えさせられる。

2009-03-07 03:27 | ひとりごと | コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。