姫路にて

土日と週末は仕事で姫路を訪れた。全国隅々を旅しているとその地を前回訪れた時の記憶が蘇ってくる。ここ姫路には渡米前の2000年に来た記憶がある。前回は確か晩成書房から出版した『パントマイムのすべて』の翻訳の最終校正中だったのを思い出す。公演の旅の最中、朝早くから街をさ迷いながら校正の仕事ができる場所を捜せどもなかなか見付からず、開店直後のミスドにようやく入って仕事をしたのを思い出した。あれから早7年の月日が流れたのが夢のようだ。 今朝は久しぶりにテネシー・ウィリアムスの「ガラスの動物園」を読みながら姫路城周辺で日向の新鮮な空気を満喫した。昔の仲間から携帯メールでTBSラジオの永さんの番組土曜ワイドで既に年末の紀伊国屋ホールにての永さんの年末特別企画、「新宿寄席」へのカンジヤマの出演(12月27日午後六時開演)がアナウンスされていた事を知らされた。永六輔さんには感謝してもしきれない程の御恩を頂いている。有難い、本当に! (写真はみゆき通りの角にある思い出のミスドと姫路城)

2007-11-25 01:20 | つれづれなるままに | コメント(4)

金沢にて・・・・NHK金沢「デジタル百万石」

15日から昨日18日まで金沢に滞在した。盛りだくさんの4日間だった。「英語とマイムのバラエティー」という、パントマイムの動きから入る英語入門の舞台をやってきた。4月に出版した「動けば英語が身にしみる」という本をベースに基本動詞と前置詞の活用で日常繰り返される便利な表現をマイムで動きながら学ぼうという企画である。 NHK金沢のアナウンサー、宮崎浩輔さんがカンジヤマ・マイムの活動に興味を示してくださり、石川県のローカルニュース「デジタル百万石」という番組に出演を依頼された。宮崎さんとの楽しい会食の打ち合わせをし、そして16日に収録をした。放送予定日は11月22日、ただし、石川県内のみである。生放送ではなかったのでそれほど緊張せずに楽しめた。 金沢の子ども劇場さんにはこれで計4回目の公演になる。前回は1999年の三月。8年ぶりの公演になる。しかし、会員さんたちはすでにかなりの割合で入れ替わっており、カンジヤママイムを見たことのある人々は少なかったのには時の流れを感じた。  それにしても驚いたのが金沢にある芸術村というところだ。何しろ金沢市が管理しているのだが、24時間オープンであり、中には様々な劇場、スタジオ、その他の施設がそろっている。以前永六輔さんが職人大学というものに関わっているというお話をうかがった事があるが、アメリカ帰国後には是非うかがってみたいと思っていた矢先だったのでとても嬉しかった。それにしても金沢は粋な事をするなと思った。とても刺激的だった。しかも、今回案内してくださったのが金沢で何十年もこどもの文化の為にずっと劇場活動に献身されてこられて、今は整体師の道を歩んでいらっしゃる松本真由美さん。彼女とも10年ぶりくらいの再会になる。それぞれの道を歩んでいるがたくさんたくさん共通の話題に花がさいた。 今回の金沢はとてもやさしく自分を包み込んでくれたような気がする。忙しいスケジュールのなかにホットする人々との出会いがいくつもあった。さてこの次ここに来るのはいつなのだろうか。楽しみだ。 (写真はNHK金沢スタジオにて宮崎アナウンサーと収録後に)

2007-11-19 08:10 | ひとりごと | コメント

感性とは: 間違う事、そして分からないという事について

連日の強行舞台スケジュールの翌日大学で教え、その帰りにジムによってトレーニングしたらさすがにその夜は何もできずに布団の上で意識を失ってしまった。 今回の旅でつくづく感じたことがある。子どもや青少年の感性と言う問題だ。自分は一つ一つの舞台にいろいろな思いをこめて、お客さん達との出会いに何かを必ず残したいと思いながら演じている。だからオモシロおかしい作品群の最後には必ず大人向けの一見難しいマイムを一つでも二つでもあえて演じたいと思っている。 ただその場合にいつもそれを見ている大人の方々から同じようなリアクションがある。「私たちには分かるが、少々子どもには難しかったのでは?」というもの。つまりそれを見ている大人の方が不安になることがあるようだ。これはとてもよい機会なのでそのつどそういった方々に御話しさせていただくのだが、観劇という行為はそれを理屈で分かればよいというものではないのだと思う。たとえ理詰めで分からなくても、そこで行われた行為がどのような「感じ」のものであったか、あるいはそれを見ている周りがどんな反応をしめしていたのかを感じることは、その感性が育ってゆく上の大切な過程であると思う。 実際子供達のなかには本当に個人差があることに驚かされる。先日福井の大野市の小学校でも最後に「バイオリン弾き」という人間の死を扱った作品をあえてぶつけてみた。最後の場面で笑いの面をつけたバイオリン弾きがベッドに横たわる息子の死に気づき、笑いの面をかぶったままその子を抱きしめてその体の反応のみで、父親のショック、苦悩にうめく感情を表出するのだが、その瞬間、小学生の反応は二つに分かれたのをはっきり舞台から感じたのだ。ゲラゲラと笑っている子ども、そのなかで何人かが「あっ、死んだ!」「死んだんだ」と控えめな小さな声があちらこちらから聞こえてきたのだ。 このようないろいろな反応を誘発するということだけでも本当にこの経験は有意義だったと思う。観劇に間違いなどはないと思う。本人がそれがおかしければ、それはおかしいのだからそれでいい。そしてその反面、なぜ隣の仲間が違う反応をしめしたのかをどこかで覚えていてもらえればそれもまた一つの経験なのだ。いや、そうでなくても、ただ単にわからないというだけでもいい、そうしたら他の友人、あるいは大人に聞く子達もいるかもしれない。このプロセスでいろいろな学びが起こってくるのだと思う。 思うに学校と言う場はあまりにも「間違えること」、そして「分からない」という事が否定的に捕らえられているところだと思う。間違うこと、わからないこと、イコールそれが敗北のごとく常に扱われているのが現状だろう。が、しかし、人間に間違えがなかったら、そして分からないという自らの疑問がなければ何も発展はしなかったはずだ。あえて人から与えられたものを正しく繰り返すだけの人間を学校教育(特に日本の場合)はつくりすぎたように思う。特に感性というものは、自分にとっては背伸びしたようなものをどんどん見たり聞いたりしてゆくことにより、より高度な精神性を開拓できるのだと思う。 自分自身の経験からしても、子どものときに何気なく見ていた大人の為のテレビや映画のシーンをなぜかたくさん覚えている。頭に残っているその残像を成長の過程でどのくらい繰り返し思い出しては「ああ、そうだったのか!!!そういうことだったんだ”!」と再確認させられたことか。つまり、成長の過程でより高度な事柄を見聞し、経験し理解したことが、過去にわからなかった蓄積された経験と照合されてより納得のゆく再確認がされるのだろう。その時にその人間に過去の分からなかった経験がどのくらいたくさん蓄積されているかということが、より深い、経験による理解への鍵となるのだと思う。「ああ、そうなんだ、そういうことだったんだ!!」子ども達の将来のこの瞬間のためにも、これからもどんどん彼らの感性に訴えるマイムを作ってゆきたいと思っている。 (写真は大野町上庄小学校のみなさんと)

2007-11-13 06:18 | 公演 | コメント(1)