さて、どうしてだろうか?考えてみよう

かなりインパクトのあるニュースが流れた。原発事故後の放射能の影響への対応について、専門的見地からの助言を求めるため管直人が内閣官房参与に起用した東京大学大学院の小佐古敏荘教授が政府、もっと言えば文科省の対処方法に疑問を呈し、辞表を提出した。学者としての良心に従うこの行動を心から称えたい。と同時に、これを報じるNHKのニュースサイトだが、不思議な事に時間の経過を経て、その後同じニュースから子どもに関する20ミリシーベルトの問題が何故か削除されているのに気づいた。不思議ですね~。何でだろうか。さてさて、学生諸君、以下の二つを比べてみましょう。
最初のニュース:http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110429/k10015638131000.html
その後の同じニュース:http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110429/t10015638131000.html
さてさて、一度流した情報を敢て一部削除することの意図は何でしょうね。面白いからみんなで考えてみましょう。これが本当の学びです。

2011-05-01 07:12 | ひとりごと | コメント(2)

学びの武器、想像力-Imagination & Empathy-

朝、友人からメールをもらった。陸前高田の御友人とそのご家族がようやく48日ぶりにご遺体で確認され、荼毘にふされるという知らせだった。10キロも離れたところで発見され、DNA検査もその数の多さで順番が来ず状態で、決め手は御主人とその方のおそろいの腹巻であったという。それぞれ瓦礫の下、森の中で泥まみれの状態で発見されたと・・・何とも表現のできない無常観に襲われた。悲しいという言葉を通り越して、本当に切なくて仕方ない。心が一日中痛み続けた。 私たちがテレビ画像などで見る津波の爪痕は、すでに瓦礫だけの風景としての「乾いた」映像でしかない。しかし、その裏で現実にはどれくらいの悲惨な生々しい光景が展開しているかを想像しなくてはならない。そしてそれらに直面している人々の心をも。テレビ画面とはこうした固定された一面しか伝えられないのが限界だ。私達は想像しなくてはいけない。
思えば、たまたま私たちは今まで平穏な「瞬間」を「生かされていた」に過ぎない。平和ボケとは恐ろしい病だったかもしれない。長い歴史の中で、どれだけ人類はこうした自然の猛威の前に為す術も無く、肉親をはぎ取られ、愛する者を奪われ、声にならない悲鳴を上げ、そして枯れても止まない涙を流してきた事だろうか。
友人からのメールを読みながら昔読んだ方丈記の一節が脳裏をよぎった。養和前後の飢饉に続く疫病により、京の都は死者が後を絶たず、河原は馬や馬車がすれ違う事も出来ないほどの遺体の山だったという記述がある。その時、仁和寺の隆暁という僧侶が仲間と一緒に、遺体の額に「阿」の字を書いて大日如来にすがれるようにと供養して歩いたが、その数はなんと4万2300余りだったという。そしてこれは京都の街のほんの一部であるからして、これをどれだけ上回る数の遺体が散乱し、そして異臭を放っていた事だろうか。まさに地獄絵だ。
私達はこういった事を文字により学校で学ぶ。そして映像でその一部を垣間見る事もできる。確かにこの記述はあまりに凄かったので幼かった自分の脳裏に焼き付いてはいたが、所詮は過去の事として、自分の何処でいつの間にか無難に処理していたような気がする。だが、今これが現実なのだ。この地獄絵が現実の世界として目の前に展開している。確かに教科書には机上の学びはあった。そして今も映像でその一旦は垣間見られる。しかし、学びとは想像力と行動だ。私達はこれらの教材から想像力を駆使して学ばねばならない。これが本当の学びになるためには何をしたらよいのか、再び平和ボケに陥らない為にはどうしたらいいのか。私達はこの数多く亡くなった人々の魂を供養する為に何を実際に行動し、子ども達に何を伝てゆかねばならないのか。今、単に「立ちあがって」「元気を出す」という標語が飛び交っている。元気は確かに必要だ。だが、それと同時に、時には立ち止まって、真剣にこの学びというテーマを考えてゆかねばならないのではないか。一体私達は、このような文字、映像をたよりに何を学ぼうとしているのか、何のために見るのか。それによってどう変わるべきなのか。そしてその時必要な想像力をどのように育んで行ったらよいのか。今、心の中でひたすら祈りながら自問している自分がいる。

2011-04-29 08:02 | ひとりごと | コメント(2)

鹿児島の新鮮野菜

鹿児島にいる親友から沢山新鮮な野菜を送ってもらった。ここのところ毎日これらの野菜を安心して美味しく頂いている。鹿児島の大地になる野菜がこんなに美味だとは感動であり、新しい発見だ。感謝感謝である。持つべきものは友人だな~ こんなに美味しい野菜ならば多少の送料を払ってでも毎日食べたいとつくづく思う。
今風評被害という言葉がしきりに使われているようだが、果たして本当にすべてが風評被害なのだろうか?特に放射性物質に敏感な妊婦さん、そして幼い子ども達にとっては出来る限り放射性物質を含まない食材をもとめるのは当然であり、(もちろん大人だけで食べる場合は騒ぐ必要はないだろうが)、それを一言風評被害というまやかしの言葉で囲ってしまうのはおかしいと思う。政治家が一口食べてデモンストレーションしたとしても、彼らがでは、果たして毎日当地の食材を口にしているかといえば、はなはだ疑問である。
勿論、実際に本当の風評被害はあると思う、それが証拠に福島の浜通りなどにある大好きな岳温泉などをはじめとする温泉宿がいくつも廃業を余儀なくされているという。しかしながらその反面、福島を中心にまわりの地区(東京を含め)は確実に空気も水道もわずかながらの放射性物質が混じっているのも事実だ。そしてそれらは体内から新陳代謝によりかなりの量は排出されるだろうが、確実に今でも毎日放出される放射性物質がある限り、空気や水を介して少なからず私達の体内に入り続けているのも事実だ。体内被曝はその積算値が問題になるという。だったらなるべく放射性物質に晒されていないものをとるのは当然のことだろうと思う。これは風評被害ではなく、実際に農作物がわずかでも汚染されていれば、原発による実際の放射性物質被害といわなくてはならないのだ。言葉によるミスディレクションに注意しなくては!
美味しい野菜、新鮮な空気、そして奇麗な水、こんな当たり前のように思えた事が現在あたりまえでなくなっている。この事実をしても現在、原発維持、あるいは推進と回答する人々が6割を占める日本とはなんなのだろうか?もっとも原発なしでは電力をまかなえないという電力会社の執拗なプロパガンダが強く深く浸透しているのが原因であることは確実なのだが。いつになったらこのプロパガンダの呪縛から逃れられるのだろうか。
こういった事に若者たちが気づいてほしくて、自分が教えている大学の授業には少なからずメディア・リテラシーの話題を挿入することにしている。若者たちには私達が犯した過ちを繰り返さずに、メディアの裏をちゃんと読んでほしいと切に願っている。今日本のジャーナリズムは機能していない。だからこそ一人一人の大人がそれぞれの立場で若者を導いていかなくてはならないのだと思う。そして学者たちも、御用学者がどんなに恥ずかしい存在なのかを学問の入り口で示してあげなくてはいけないのだろう。金や名誉に目がくらんだ学者はただの嘘つきでは済まされない。今回のように人々の命を左右する決断をしている事もあるのだ。今一人一人の大人が若者たちに現実に起こっている事に目を向けさせてそして私たちの過ちを素直に示してあげなくてはならない。

2011-04-26 10:56 | つれづれなるままに | コメント