マスコット人形その他もろもろ

公演先でたまに凄く嬉しい事がある。それは手作りのプレゼント、それもとてもパーソナルなものを頂いた時である。先日も公演先のお母さんがカンジヤマのイメージの人形を、それもグラデュエーションキャップ(卒業帽)にタッセル(卒業帽子にぶら下がったフサ)つきのマスコット人形(写真の手作り人形二つ)をいただいた。とても嬉しかった。
自分がこの姿に憧れたのは中学校時に見たThe Graduate、つまり「卒業」という映画だった。ダスティンホフマン演ずるベンという人物が東部の大学を卒業して西海岸に戻った飛行場からこの映画はサイモンとガーファンクルのサウンドオブサイレンスという名曲とともにはじまる。極めつけは最後のウェディングシーンにて自分の恋人エレンを式場から奪い去る時に発する「エレーン!エレーン!」というセリフである。ガラス張りの式場の階上から今まさに他の男性と結婚指輪を交わす瞬間の自分の恋人に向かって発する必死の叫びである。この映画を見たときからアメリカ東部の大学とサイモンとガーファンクルというコンビがずっと自分の頭の片隅に刻み込まれてしまった。(ニューヨークに最初に行ったのはそのせいかも知れない)そしてこの映画のシンボルマークが卒業帽にタッセルをつけたシルエットだった。
このサイモンとガーファンクルがうたうサウンドオブサイレンスという曲の意味が中学生の自分に理解できずにかなり苦しんだ。何しろ沈黙の音?!なのである。まさに禅の公案のような(たとえば片手で叩く音はどんな音?とか・・・)矛盾した文句ではありませんか。しかし、シェークスピアを紐解くごとにこの種の表現によくぶち当たるのが興味深かったのを思い出します。例えば例の「ロメオとジュリエット」で、 “Parting is such sweet sorrow” なんていうセリフがあります。別れは甘い辛さ?・・・・つまりこれは英語でoxymoron(オキシもロン)と呼ばれるもので、ギリシャ語の語源でoxysは「鋭い」でmorosは「鈍い、馬鹿な」の意味から来ている。つまり日本語でいえば、「矛盾語法」 などと言ったものでしょうか。これは、普通は矛盾していると思われる2つの意味を持つ単語を並べて作り出す表現法です。例えば 「公然の秘密」、「無知の知」などなど。つまり考えてみれば自分の「おしゃべりなパントマイム」っていうのも、このオキシモロンなのだろうか?!(笑)そしてカンジヤマのショー「黙れ!パントマイム」も!!(爆) 

2007-12-10 10:25 | ひとりごと | コメント(4)

博士一周年!

ちょうど一年前の今日12月4日、ウィスコンシンのマディソンの雪の降りしきる朝、自分は大学の演劇学部会議室で博士論文の最終口頭試問を受けていた。凍りつくような寒い朝、極度の緊張で臨んだディフェンスだった。約300ページにわたる論文について、ニ時間におよぶ質疑が投げかけられ、それに対して自分の論文を守る、つまりディフェンスするのが最終口頭試問だ。ついに質疑応答が終わり、教授に「それではこれから最終審査をするので、呼ばれるまで退室していてください」といわれ、審査室の部屋を一人で退室する。審議委員メンバーの担当教授5人が中で論文の合否の是非を相談している。ディフェンスの緊張はとけたが、やはり結果が気になる・・・・時がゆっくりと過ぎてゆく。
やがて15分くらいしてから教授に再び呼ばれ、部屋に入る・・・・・五人の教授達の視線を一手にうけて入室。第一声! ”Congratulations, Doctor!” (「おめでとう、博士!」)担当教授が握手の手を差し伸べてくれた!!「お、終わった!!・・・ついに・・・五年半の道のり・・・・」。嬉しさよりも脱力感が先に全身を駆け巡った。だが、その次の瞬間、もう一人の教授が言った「あなたの論文はpredicate of excellence とともに受け入れられました!!」・・・・「はっ???」ううううう・・・・、博士と呼ばれた次の瞬間その意味がわからず、一瞬たじろいだ・・・
そんなのわからねえよ(これ、もちろんこころのつぶやき)・・・・、と、するとすかさず、もう一人の教授が”Takeo, it’s something very good, don’t worry!!”(「タケオ、心配するな、非常にいいことだよ!!笑」)・・・・つまり自分の論文が優秀論文として受け入れられたということらしい。一瞬だじろいだが、もうそんなことどうでもよかった。(もちろん嬉しかったが)とにかく、論文が受け入れられた、そのことが全てだった。
妻が事前にシャレでTシャツを用意してくれていた。その黒いシャツの胸には”Trust me, I am a doctor!”(私は博士だ!) と白い字でかいてある。これを上着の下に着て、博士論文合格の折に上着を脱いでみせる・・というはずだったが(笑)さすがに、そのガッツはなかった(涙)
とにかく、あれから早一年が過ぎた。どんどん時間が過ぎてゆく。泣いても笑ってもひたすら時間が流れてゆく。人生の半分は葛藤の連続のうちに過ぎてしまったようだ。諸法無常、常ならざるものとして常ならざる世に生まれ、同じ時間が流れるのならば、コップ半分の水をhalf empty と見るよりもhalf full と見たほうが得のような気がする。(つまり半分しかないのではなく、半分もあると見るのだ!)ものの見方次第で人生が変わる。そんな気がする。地獄のあとに天国がくる。でもそんな天国でもその常ならざる事をいつも意識していなくてはならない。これが今自分の携帯メールのアドレスになっている。and, this too shall pass!! (やがて、これも過ぎ行くものという意味)。注:携帯アドレスはこのままではありません!!(ちなみに写真はそのウィスコンシン大学の演劇学部の廊下を歩いている息子です)

2007-12-04 04:41 | 学位 | コメント

千葉県佐倉市にて

早いものでもう師走に入ってしまった!!12月最初の週末は久々に千葉県佐倉市を尋ねた。佐倉子こどもステーションというNPO法人主催で英語とマイムのショーを行った。前回佐倉を訪ねたのはやはり渡米前であるからもう7~8年前になるかとおもう。今回は大人の方々も数多く、盛り上がりがすごかった。大変気持ちのいい公演ができた。回を重ねるごとにこの英語のショーが深まってゆくのを感じる。今日英語を楽しんだ子供達には再び21日に佐倉市にてバージョンアップのワークショップを行う予定だ。
英語でも何でもやはり勉強と呼ばれるものは楽しくなくてはいけないとおもう。永六輔さんと以前よく旅をさせていただいたことにより、本当にいろいろなことを学んだ。永さんはよく「学校ごっこ」なるものをしてその中で様々な教科をオモシロおかしく構成していらした。ちなみにカンジヤマもよく体育の授業を受け持った。一番思い出になっているのが長野の善光寺の大きなイベントの一環としてやった善光寺学校ごっこだ。何しろその学校ごっこなるものの校長が無着成恭氏と松原泰道氏、そして副校長が三遊亭円歌師匠、講師が内海佳子、好江師匠、松島ともこさん、そして永さんなどなどとすごいメンバーの中での学校ごっこであった。カンジヤマもその中の講師として参加させていただいた。そしてなんとそれぞれの講師のマネージャーが善光寺のお坊さんたちという!?なんともすごいとしかいいようのないイベントだった。
このような楽しいイベントが今のカンジヤマの現在の教育演劇の大きな基本になっているとおもう。アイザック・ニュートンがその偉業をたたえられた時の素敵な言葉がある。この言葉がとても好きだ。「もし私が他人よりも遠くを見ているのだとしたら、それは巨人の肩の上に立っているからである」つまりどんな偉業であろうとも、それは過去からの様々な人々の努力の蓄積の上にあって初めて可能となるものだという意味だろう。カンジヤマの業績などなにもないが今この新しい事をやろうとしている方向性そのものが既にもろもろの諸先輩方の肩の上に立たせていただいているおかげだと思う。

2007-12-02 11:13 | ひとりごと | コメント