未だ明けぬアトランタにて

今は7月24日午前5時30分。ただし、アメリカ東海岸時間である。日本は従って今は24日午後6時30分。ちょうど日本がこちらの13時間先にあたる。夕べはデトロイト、メンフィスと乗り継ぎを二回して、ここアトランタに昨夜10時半に到着した。途中かなり待ち時間があったのでゆっくりでき、そして息子の健もそれぞれの飛行場にて散々「走りまがった」のでかなり疲れがたまったらしく、順調に時差を感じないほど今もぐっすり寝息をたてている(ちなみに、この「走りまがる」とは彼の「走りまわる」という言葉の意味らしい)
驚いたのは息子の記憶力。飛行場に着くと荷物用の連結された車をみて「あっ、ウィキウィキバスだ!」と叫ぶ!実はハワイのホノルル空港で最初に連結バスを見て以来、すべてこの形に似た車は彼にとってはウィキウィキバスなのだ。ホテルに到着したとたん「ハワイのお家に行きたかったの!!」と駄々をこね始めたが、エレベータでホテルの部屋の前に来ると「あっ、ハワイのお家だ!!」と満足げだった。つまり彼にとってはホテルの部屋はハワイのお家なわけである(笑)認識の仕方がものすごく面白く、勉強になる。自分らもこのように物事をカテゴライズ(分類)し、そして必死に身の回りの世界を認識してきたのだろう。さてさてそんな息子の目に初めての南部はどう映るのだろうか?
論文のプレゼン。原稿を読み返しては明日の会場を頭にイメージしながらそれを口ずさんでいる。こんなスピーチは三年前の学会発表のぞいたら、スピーチとしては大学時代以来かもしれない。その昔、日本の大学のとき部活の加盟6大学英語スピーチコンテストに出演し、優勝した事があったが、それ以来一切やっていない。さてさてどんな事になるのやら。正式なプログラムがとどいたが、発表は30分、その後質疑応答がある。私ともう一人、受賞ではないが、やはり優秀論文の認定をうけたニューヨーク大学の学生が私の後にもう一つスピーチをするそうだ。
未だ明けぬアトランタにて (写真はアトランタ空港の天井に取り付けられていた無数のアリのオブジェ!!なんで?さあ・・・)

2008-07-24 05:30 | つれづれなるままに | コメント

明日渡米します!

夕べ新聞読んでいて気付いた事。私が最近やっている英語とマイムのショーで必ず最後に英語に触れるきっかけになったアポロの月面着陸の際の二ール・アームストロング船長のあの名せりふを紹介するのだが、実は先日の7月20日がなんとあの日からちょうど39年目の記念日だったらしいのだ。いや~、そうだったのか。1969年だもんな~
さてさて、いよいよ学会での基本的なスピーチの原稿が出来上がった。オープニングではやはり少々マイムやっちゃおうっと!(笑)とにかくいち早く観客とのラポールを作り出すにはマイムが一番。だってほとんど学会のメンバー達は私がプロのマイムだとは知らない。これ強い武器(笑)これからこの原稿なんとか頭に詰め込まねばならない(汗)といっても、渡米前日の今日は玉川大学の期末試験じゃ!!これをなんとかいち早く採点しなくてはならない。なんという毎日なのだ。
そうそう、一応ここにもお知らせを!本日7月22日の夕方より、カンジヤママイムの携帯電話は本人がでなくなります(誰がでるかはお楽しみ!!笑・・・日本語が通じないかも・・・爆)連絡はメールにて!是非よろしくお願いいたします。スカイプもやっていますよ~!!(写真は授賞式と論文発表が行われるアトランタのハイアットリージェンシーホテル)

2008-07-22 05:35 | つれづれなるままに | コメント(4)

St.Paulの山小屋

立教大学の教育学部のワークショップで久しぶりに立教を訪れた。ちょうど日曜でオープンキャンパスをやっていたのでキャンパスは若い人々でにぎわっていた。おなじみのツタの絡まる時計台をくぐると狭いながら心地よい芝生のヤードがある。学生時代ここに寝転んでいつも友人たちと読んでいたのが「Barron’s College Handbook」というアメリカ大学カタログだった。10cmちかくある分厚いカタログに何千とあるアメリカ大学、それをこまめに調べていろんなことを楽しみながら学んでいった。とにかく演劇ということで盲目的にニューヨークに憧れていた。しかし、またニューヨークという名前がつく大学には大きくわけて3種類あり、NYUという私立のニューヨーク大学、市立のCUNYといわれる、ニューヨーク市立大学、そして私の行ったSUNYというニューヨーク州立大学があることもこのころ初めて知った。当時立教にはアメリカに三つの単位互換できる提携校しかなかった。一つはオハイオにあるKeyon College, テネシーにあるUniversity of the South, そして三つ目がもう少しで自分が行くはずだったウェストバージニアにあるWashington and Lee Universityだった。(超エリート校であり、交換留学生として認められたのだが、あまりに小さな大学だったので演劇科目が少なく、やむなくあきらめた)もしこのウェストバージニアの小さな大学にいっていたらまた運命は変わっていたかも知れない。なんて想像したりもした。現在は立教は何十と言う大学が提携しているという。幸せな事だ。
何よりも思い出すのは渡米が決まり、学務の事務所に退学届けを出しに行くときのなんともいえない気持ちだ。アメリカに渡った他の友人達は、みな親の薦めで日本の大学に休学届けをだしていった(半額の授業料を支払う事になる)。しかし、そんな余裕もなく、また経済学部をやめて演劇をやろうなどという親不孝な自分には休学などという逃げ場をつくるような言い訳は許されない事だった。あえて親の希望に反して自分に鞭打つ気持ちで出した退学届けだった。しかし、いざ届けを出すときには張り裂かれんほど心が痛んだ。せっかく親がだしてくれた高額な学費を今自分がゴミ箱にすててしまうような自責の念に苛まれた。
もうなんと三十年前になる。遠い昔の物語だ。しかしながら、このような経過で自分がアメリカで学んできたことを今、このキャンパスで教える事ができる幸せをまた感じもした。今も基本的なキャンパス構造は変わらないが、とにかくどんどん新しいビルができてびっくりした。芝生はもしかしたら当時より格段美しくなっていたし、当時は山小屋と呼ばれる本当に今から考えるとミスボラシイ掘っ立て小屋のような部室があったのだが、そこはカフェテリア山小屋というおしゃれな食堂になっていた。「年々歳々花相似たり」というがいまや段々花も似つかなくなってしまっているのだろうか? 

2008-07-21 10:16 | ひとりごと | コメント