St.Paulの山小屋

立教大学の教育学部のワークショップで久しぶりに立教を訪れた。ちょうど日曜でオープンキャンパスをやっていたのでキャンパスは若い人々でにぎわっていた。おなじみのツタの絡まる時計台をくぐると狭いながら心地よい芝生のヤードがある。学生時代ここに寝転んでいつも友人たちと読んでいたのが「Barron’s College Handbook」というアメリカ大学カタログだった。10cmちかくある分厚いカタログに何千とあるアメリカ大学、それをこまめに調べていろんなことを楽しみながら学んでいった。とにかく演劇ということで盲目的にニューヨークに憧れていた。しかし、またニューヨークという名前がつく大学には大きくわけて3種類あり、NYUという私立のニューヨーク大学、市立のCUNYといわれる、ニューヨーク市立大学、そして私の行ったSUNYというニューヨーク州立大学があることもこのころ初めて知った。当時立教にはアメリカに三つの単位互換できる提携校しかなかった。一つはオハイオにあるKeyon College, テネシーにあるUniversity of the South, そして三つ目がもう少しで自分が行くはずだったウェストバージニアにあるWashington and Lee Universityだった。(超エリート校であり、交換留学生として認められたのだが、あまりに小さな大学だったので演劇科目が少なく、やむなくあきらめた)もしこのウェストバージニアの小さな大学にいっていたらまた運命は変わっていたかも知れない。なんて想像したりもした。現在は立教は何十と言う大学が提携しているという。幸せな事だ。
何よりも思い出すのは渡米が決まり、学務の事務所に退学届けを出しに行くときのなんともいえない気持ちだ。アメリカに渡った他の友人達は、みな親の薦めで日本の大学に休学届けをだしていった(半額の授業料を支払う事になる)。しかし、そんな余裕もなく、また経済学部をやめて演劇をやろうなどという親不孝な自分には休学などという逃げ場をつくるような言い訳は許されない事だった。あえて親の希望に反して自分に鞭打つ気持ちで出した退学届けだった。しかし、いざ届けを出すときには張り裂かれんほど心が痛んだ。せっかく親がだしてくれた高額な学費を今自分がゴミ箱にすててしまうような自責の念に苛まれた。
もうなんと三十年前になる。遠い昔の物語だ。しかしながら、このような経過で自分がアメリカで学んできたことを今、このキャンパスで教える事ができる幸せをまた感じもした。今も基本的なキャンパス構造は変わらないが、とにかくどんどん新しいビルができてびっくりした。芝生はもしかしたら当時より格段美しくなっていたし、当時は山小屋と呼ばれる本当に今から考えるとミスボラシイ掘っ立て小屋のような部室があったのだが、そこはカフェテリア山小屋というおしゃれな食堂になっていた。「年々歳々花相似たり」というがいまや段々花も似つかなくなってしまっているのだろうか? 

2008-07-21 10:16 | ひとりごと | コメント

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