うれしかった事三連発!

秋田の湯沢高校芸術鑑賞会も大盛況に終わり、深夜湯沢より帰京。初めてパントマイムを生の舞台で見たという生徒さんが多い中、物凄い反応で実にやりがいがあった。そして帰京後、またまた演芸場の舞台の毎日が再開された。
そんな中、昨日(27日)はとてもうれしい事が3つ重なった。まずは先日このブログやカンジヤマのウェブでも紹介した大学の教え子の一人がヴェトナムのボランティア活動から無事帰国した事。詳しい成果はこれから報告してくれるそうだが、ヴエトナムの学生達と協力し、立派にハンセン氏病患者さん達の為にシャワー施設を完成させてきたという報告を受ける。この活動にはこのブログの読者の皆さま初め、多くのカンジヤマのファンの方々にも暖かいご声援、御協力をいただきました。この場をもう一度お借りして感謝いたします。後ほど詳しい報告をこのブログにも載せさせていただきたいとおもっております。小さいけど確実に平和への、そして人間愛の種を植えて来られたと信じています。こういった民間の、それも若いエネルギーが願わくば、浅ましくて醜い大人たちの偽善行為を払しょくしてくれる事を念じつつ・・・・とにかく彼女に「おめでとう。そして御苦労さま」
二つ目は、やはりもう一人の早稲田の教え子が東大大学院の一次試験に合格したという知らせがきた。自分の授業を立て続けに全て取り続けたという風変りな?(失礼!)子だが・・・それだけに推薦状を頼まれたときには力が入った。もちろんまだまだ二次試験もあるのだが、とりあえず嬉しかった。
三つめはウィスコンシン大学院の後輩に当たる友人が(学位は他大学院であるが)立派に最終口頭試問を突破し、博士号取得というニュースをもらった。本当に嬉しかった!!何百という人間が途中で学位を諦める中、彼女は様々な困難にもめげずに最後まで意志をつらぬいた。在米8年。本当によくやったと思う。我がことのように飛び跳ねて喜んだ。「心からおめでとう!!」
みんなそれぞれの分野で一生懸命に生きている!!そんな気分に浸れた一日だった。自分にとても励みになる嬉しい事の連続。みんなのエネルギーに感謝、感謝。そして大した事はしていない身なのだが、そんな毎日をつれづれなるままに書かせて頂いた週刊新潮の「私の週間食卓日記」が発売されカンジヤマにかかわる皆様にこんな日々をおくっておりますとのご報告兼ねてお知らせさせて頂いた。栄養アドバイザーの方が81点を下さり、身体の使い過ぎと睡眠不足を心配なさってくださった。確かに徐々に年齢に応じたリズム修正は何処かで必要なのかもしれない。ただ、身体にムチ打ちながら舞台が毎日出来る幸せをかみしめている。そして周りの友人たちが様々な生きざまでエネルギーをくれる。感謝、感謝だ。

2010-08-28 12:17 | ひとりごと | コメント(2)

ん~~??おぼろ月夜?

鈴本演芸場4日目も物凄い入りでした。団体のお客様が大勢入られて立ち見の方がたくさん!!嬉しい事です。昨日はパートナーのCは朝から車で本日の公演地秋田県湯沢まで運転してくれたので私が一人で演芸場をこなしました。寄席が初めてのお客様が多いようでしたのでひと動きひと動きに物凄い反応。
汗を拭く暇もなく終演後上野駅でこまちに飛び乗り、一路秋田へ。雫石をすぎたころ窓の外は小雨が降り始め、湿ってかすんだ東北の山々の風景がそれはそれは美しかった!!なんとなく山頭火を口づさみたくなるような気分。しばらくするとその夜空にぼやけたまん丸い月が・・・・一瞬「おぼろ月夜」っと口から出そうになり、ふと考える。確か「おぼろ月夜」って春の季語だったような・・・・では、これをなんと表現するのか・・・とここまで考えた時にソシュールの主張する言語の恣意性というものをついつい考えてしまった。おぼろ月夜という言葉をしらなければ、この素敵な風景をそのまま自分の中に受け止められたのかもしれない。しかし、人は一度このような体験を形容する(区切る)記号(言語)を知ってしまうとついついそれに符号するものを探し出し、レーベリング(ラベル付け)をしたくなってしまうのだ。しかし、またこれはその文化の中のその特定の言語を操る人々の中ででしか通用しない事が多い。おぼろ月夜といってもそれは英語を使用する人々にはピントこないのだ。(つまり「もったいない」が英語にないのと同じ) 言語学者ソシュールは、言葉が存在して初めて、概念や事物が誕生するという。つまり私たちは使用する言語によって世界や自分自身の体験の区切り方が違ってくるのだ。ん~~~、言語を使わずに物事を考えるのは不可能なのか?? 
しかし、あえてより直接体験をしてみようと試みる。ぼ~~~っとかすんだまん丸い月を見つめてただその月と一つになって楽しもうとしてみた。言語がなければこんなに素敵な体験もありなんだ。言語の美しさにも心打たれるが、直接体験という事も現代人は必要なのではないだろうか。ただ見るものと一つになってそのものになりきる。そこには美しいも醜いもない、ただ、それがある。たしかに生易しい事ではないが、何気に心が癒される。この際おぼろ月夜はどうでもいい(苦笑)
さてさて今日25日はここ湯沢で高校の芸術鑑賞会。また若いエネルギーと対峙して沢山芸を楽しんでもらい、私たちも沢山エネルギーもらってこよう。

2010-08-25 06:07 | つれづれなるままに | コメント(2)

子どもの視点

この夏にいくつか驚いた事、面白かった事。一つは本屋に行き、5才の息子にダリの絵を見せていた時の事。ダリ風の面白い最後の晩餐の絵があった(タイトルは忘れたが)。イエスを囲んで12使徒たちがみな手を合わせてうつむいて祈っている風景が描かれていた。それを見た息子が「あれ?、みんなでゴメンナサイ・パーティーしているんだね!!」と本屋で叫んだのにつられて自分も噴き出してしまった。考えてみれば確かに「御免なさいパーティーも中々の意訳かもしれない・・・。
もう一つ、海岸で寝そべっていたときに、4,5メートル離れた所に白人の女性が本を読んでいたのだが、それをみた息子が「あっ、ほら!パパと同じ本を読んでいる!!」と叫んだ。その指す指先を見ると、なんと私が昨年から読んでいた『The Shack』というタイトル(邦題「神の小屋」)という小説だった。なんと英語の表紙というか、そのイメージを頭に入れていたとは・・・・まったく子どもの情報吸収能力と情報処理能力にはちょくちょく驚かされる。
幼いころの子どもの環境とは全てをとにかく無条件で吸収しているような気がする。だから大人が偉そうな事を口先で言っても所詮は私たちの普段の行動が(つまり後ろ姿が)しっかり彼らの中に現実の情報として蓄積されてゆくのだとつくづく思った。だからこそ今の政治家初めマスコミをにぎわす人間達の決して自省をせずに言い訳ばかりする姿を彼らの中に入れたくないという思いがする。これがしっかり子ども達の脳に入り込んでいると思うとぞっとする。
鈴本は昨日も満員。本当に素敵なお客様でした。

2010-08-23 05:51 | ひとりごと | コメント(2)