ストーリーテラーになろう

ここのところ睡眠が十分でない日が続いている。夕べも本番の為の打ち合わせや音源収録で帰宅が午前3時、寝たのが4時過ぎだった。といって目が覚めたのが7時ごろ。これじゃ、体がいつまで持つかわからない。頭の中がボーっとしている。ん~、こりゃまずい。稽古用のマイムのビデオみながらついウトウト。いきなり締め切りの原稿の件を思い出す!体中の交感神経が興奮し、心臓の鼓動が高鳴るのだが、頭がついてゆかない。
午後から思い切って近くのマッサージにいった。ここのところよく利用しているのだが、訪れるたびにつくづくその担当者の指圧、マッサージの技量の違いに驚かされるのだ。今日はいつもの女性だったのだが、この人が実にうまい!!背中を手のひらで押してゆく、その最初の一押しから何か「この手に委ねたい!!」という思いに駆られ、そして知らない間に爆睡してしまうのだ。逆に最初の一押しで、「こいつはだめだ!!」とわかってしまう人も多くいるものだ。まあ、自分自身が指圧師の免許を持っているせいかもしれないが・・・。それにしてもこの技量の違いとは一体何なのだろうか?
今日の施術の最後に朦朧とした意識の中で思ったのだが、それは一つに「物語」を手で語れる技量ではないかと思った。物語を語る。つまり身体と対話しながらストーリーテラーになりきれるかという問題だ。体に沿ってお座なりにむやみやたらに押したりさすったりするのではなく、一つ一つの手技に意味があるのだ。手が背中を移動しながら押し続け、コリがあるところへ来ると、ピタッとそこで手が止まり、そこを揉み解すまで施術がほどこされる。あるいはその系列の筋肉にそって施術が行われる。・・・これは日ごろ教育やマイムに関してつくづく思う事と一致するのだが、ある人によって、自分が目指す目標に相手を誘うときにその誘い方が非常に楽しい物語で包んでくれながら誘導してくれる人がいる。自分の目指す教育のゴールに子どもたちをどのように誘導するか、あるいは自分のマイムをどのように観客に見せながらその物語に同調させてゆけるか、これらは、いかにマッサージを受ける人がその手技によってリラックス、信頼、そして自らを完全に委ねるという行為に導くかに非常に似ているような気がする。単に指導したり、見せたり、または押したりする以外に、この独自のエンターテイメントとしての物語の構築と展開が芸であり、教育力であり、そして手技の技量なのだ。そうだ、ストーリーテラーになる為に、どのような物語をつむぎ、そしてそれをどのようなレトリック(修辞法)で展開してゆくか、これがすべてに於けるドラマティックアプローチの根源なのだろう。しかし、今日の指圧は気持ちよかった!生き返ったような気がする。こんなマイム芸が舞台でできたら、すごいだろうな。(写真は息子が初めて書いてくれた私の顔、なかなか男前!←単なる親ばか!笑)

2008-06-16 10:54 | ひとりごと | コメント

egoistic self

超殺人的多忙なスケジュールが続いている。しかし、鈴本での公演のチケット売れ行きがものすごく、嬉しい悲鳴だ。そんな最中、秋葉原での無差別殺人事件。自分の大切な友人が週末には必ず秋葉原にいくのを知っていたので、とっさに、ある行動を起こした・・・ネット上で死亡者リストを確かめる・・・これは半ば無意識のうちにしていたことだが、今省みてものすごく複雑な思いがする。 いったいなんで死亡者リストを確かめたのか?それで友人の名前が載っていなかった自分はなぜ安堵したのか?友人でない死亡者氏名を確認してホッとする・・・これはいつ何時でも死亡事故、事件がおこるとまず人々が日常的に行うことかもしれない。たとえば外国で死亡事件があると、まずマスコミは「なお、この事故(事件)の犠牲者に日本人は含まれていなかったようです」という一言を必ず添える。知人がいないとしても現実に死亡者はでているのだ。いったいこれは何なのだろうか?死んだ人が他人だとホッと胸を撫で下ろし、知人だと嘆き悲しむ? もちろん世の中毎日必ず人は死んでいる、そしてその一人ひとりの死を嘆き悲しむわけにはいかない。だから人間はある範囲の中でのみ人間関係を保てるようにできているのではないだろうか。しかし、いずれにしてもこの「ホッとした」気持ちが何なのか、とても難解だ。
究極のところ人間は自分にとり一番大切なものとは自己なのかもしれない、そしてその一番大切な自分にとってかけがいのないものを失いたくない、そんな自分を中心としたエゴがこういった行動をとらせるのだろうか。そう言えば、若いころに衝撃をうけた話がある。仏教逸話だ。ある日、王が后に「自分にとり一番この世で大切なものは?」と問うた。王はもちろん「王様貴方様でございます」との答えを期待していたのだ。しかし、后の答えは「それは私自身でございます」 うろたえた王は釈尊の下を訪ね、その複雑な胸中を明かす。ところが釈尊はその后が何と正直なものであるかと賛美するのだ。いわく、人間が一番大切なものとは常に自分自身である。で、あるからこそ自分を本当に大切にしたいから愛するものを、そして自分の周りのものを大切にするのだ、と。ん~、所詮は自己中な自分をまずは認めて、そこから出発しなさい、かな?しかし、やはりこの話には重みがある。本当に自分を幸せにしたかったら、まずは、この大きなエゴを認めなくてはならない。そしてそのエゴを真の意味で満たしたかったら、他人を自分の如く大切にしなくてはならないという事をさとると人間は変われるのかもしれない。口先で他人の幸せを!!などとノタマッテいるのはちょうどシェークスピアのリア王の機嫌をとろうと必死な長女と次女のように空しい言葉のつむぎあいのようなものであり、すぐにボロがでてしまうもの。本当にそれを表現するのは末娘のコーデリアのように重過ぎて言葉にできないものなのだろう。自分の大きなエゴを認めてからの出発か。

2008-06-13 10:10 | つれづれなるままに | コメント(1)

教員研修会にて

6日は日本私立小学校連合会の東京地区教員研修会が成城学園初等学校(小学校)で開催された。カンジヤマ・マイムは午後からの教科別研究会の「学校劇部会」の講師としてお招きいただき、実際の舞台や、ワークショップをお集まりになった都内の私立小学校の先生方にお見せする機会をいただいた。小学生の為の舞台を大人の先生方だけが見ている場でそのままするのも何かぎこちなく思い、思い切って英語のショーの一部と一本の作品を抜粋してお見せした。カンジヤマ・マイムのショーは常にインターアクティブであり、その客層により話しかた、内容がかなり変わるのであえて子どものショーをそのまま大人の前ではやらないし、またやれるものではない。しかし、とにかく嬉しい事に沢山の先生方がお集まりくださり、最後にはすっかり子どもの目線になってパントマイムをご覧になられていた。
舞台の最初にお尋ねすると、パントマイムを生の舞台でご覧になった事のない先生方が大勢いらっしゃったのには少々驚きを隠せなかった。もっともまだまだこの国では、ちゃんと子どものための舞台構成でマイムを見せられる劇団が少ないのだからいたし方ないことだろう。この会を主催されたメインメンバーの「日本児童劇作の会」のみなさんにしても、やはりパントマイムのイメージとは、いわゆるイリュージョンだとか、表面的なテクニックであり(やはり大道芸のイメージだろうか)、マイムでストーリーをちゃんと語るという事はイメージし得なかったと正直な感想を後で告白してくださった。ん~、まあ、すこしずつこのイメージを変えていかなくてはいけないのだろう。まだまだ頑張らねば!!道は遠い~

2008-06-07 01:14 | ワークショップ | コメント