egoistic self

超殺人的多忙なスケジュールが続いている。しかし、鈴本での公演のチケット売れ行きがものすごく、嬉しい悲鳴だ。そんな最中、秋葉原での無差別殺人事件。自分の大切な友人が週末には必ず秋葉原にいくのを知っていたので、とっさに、ある行動を起こした・・・ネット上で死亡者リストを確かめる・・・これは半ば無意識のうちにしていたことだが、今省みてものすごく複雑な思いがする。 いったいなんで死亡者リストを確かめたのか?それで友人の名前が載っていなかった自分はなぜ安堵したのか?友人でない死亡者氏名を確認してホッとする・・・これはいつ何時でも死亡事故、事件がおこるとまず人々が日常的に行うことかもしれない。たとえば外国で死亡事件があると、まずマスコミは「なお、この事故(事件)の犠牲者に日本人は含まれていなかったようです」という一言を必ず添える。知人がいないとしても現実に死亡者はでているのだ。いったいこれは何なのだろうか?死んだ人が他人だとホッと胸を撫で下ろし、知人だと嘆き悲しむ? もちろん世の中毎日必ず人は死んでいる、そしてその一人ひとりの死を嘆き悲しむわけにはいかない。だから人間はある範囲の中でのみ人間関係を保てるようにできているのではないだろうか。しかし、いずれにしてもこの「ホッとした」気持ちが何なのか、とても難解だ。
究極のところ人間は自分にとり一番大切なものとは自己なのかもしれない、そしてその一番大切な自分にとってかけがいのないものを失いたくない、そんな自分を中心としたエゴがこういった行動をとらせるのだろうか。そう言えば、若いころに衝撃をうけた話がある。仏教逸話だ。ある日、王が后に「自分にとり一番この世で大切なものは?」と問うた。王はもちろん「王様貴方様でございます」との答えを期待していたのだ。しかし、后の答えは「それは私自身でございます」 うろたえた王は釈尊の下を訪ね、その複雑な胸中を明かす。ところが釈尊はその后が何と正直なものであるかと賛美するのだ。いわく、人間が一番大切なものとは常に自分自身である。で、あるからこそ自分を本当に大切にしたいから愛するものを、そして自分の周りのものを大切にするのだ、と。ん~、所詮は自己中な自分をまずは認めて、そこから出発しなさい、かな?しかし、やはりこの話には重みがある。本当に自分を幸せにしたかったら、まずは、この大きなエゴを認めなくてはならない。そしてそのエゴを真の意味で満たしたかったら、他人を自分の如く大切にしなくてはならないという事をさとると人間は変われるのかもしれない。口先で他人の幸せを!!などとノタマッテいるのはちょうどシェークスピアのリア王の機嫌をとろうと必死な長女と次女のように空しい言葉のつむぎあいのようなものであり、すぐにボロがでてしまうもの。本当にそれを表現するのは末娘のコーデリアのように重過ぎて言葉にできないものなのだろう。自分の大きなエゴを認めてからの出発か。

2008-06-13 10:10 | つれづれなるままに | コメント(1)

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