旅立ち

今朝早く、一か月にわたる入院の末、父親が旅立った。ここのところ舞台、大学へと病院での徹夜の看病から通う毎日が続き、ブログが滞ってしまったが、そんな睡魔との戦いの日々も終わった。まずは父親の旅立ちに立ちあえた事に心から感謝。明け方近くに酸素吸入している父親の下顎呼吸が徐々に弱くなり、そしていよいよ別れの時間。思いのたけをその耳元で感謝とともに声にした。芸人は親の死に目に会えないとは昔からの言い伝えだったが、そんな事をよそに見事に仕事の合間に逝ってくれた。
息子であればだれでも経験する、父親への反抗、抵抗、そしてある日、自分より確実に弱くなってしまった父親の何となくさみしげな背中。そんな日々を経験し、やっと少し親孝行ができたかなと思った矢先のことだった。息子をもち、初めて自分がいかに愛されてきたかを体感したのもつい最近だった。出会い、そして別れ、人生の常ならざるサガを感じつつ、その一つの大きな出会いに感謝。
多くの皆様に応援いただきましたこと、このブログを通じて感謝いたします。ありがとうございました。感謝、そして、合掌 カンジヤママイム

2011-10-12 10:18 | つれづれなるままに | コメント(7)

触れるというシンプルな行為について

最近は仕事の合間に頻繁に病院に通う毎日だ。(お見舞いであり、自分の体調不良ではありません!!) 今一番感謝しているのは若いころに習得した自分の指圧、マッサージの技と資格。30歳の時に一念発起し、これからの自分のマイム人生の為に自己管理を徹底するべく、二年間かけて指圧師の国家資格をとり、そして翌年インドのヨガの大学へいきヨガ教師の資格を取得した。こんな時期があったのだ。
今大切な人が入院している時に自分にできる事は小さいが、少しはある。それは彼らに「触れる事」だ。少しでも触れて自分の祈りの念を手と指の先に集中させる。本来は別に指圧師の資格など要らない。その人の思いさえあればよいのだと思う。なぜならば触れる事はそれ自体に癒す力があると信じている。つまり誰にでもできる事。祈り、そして触れる。必ず念は力を出す。だが、そこに自分のように「資格」があればそれが通常だと照れくさい「触れる」行為の正当的な理由になるのだ(苦笑) そして相手も受け入れやすい。
人は触れる事を現在過小評価してるように思えてならない。そして「ふれあい」という言葉が陳腐になり、乱用される割には、実際には互いに本当に触れ合っていないのではないだろうか。抽象的な触れ合いのみが先行し、実際のフィジカルな触れ合いが忘れられているように思えてならない。触れる事、ハグする事、手を握る事、なでてやる事。これは親子でも友人でも恋人でも夫婦でもそうだと思う。現代人は健康な時でも、もっと身近な人々に実際に触れるべきだと思う。触れて触れてそしてお互いの存在に感謝しよう。そう思う今日この頃なのだ。本当の触れ合いから心の触れ合いが起こる、そう信じています。

2011-10-02 09:00 | ひとりごと | コメント(2)

今、この瞬間

怒涛の勢いで流れてゆく時間、その中で非常に複雑な事が起こり、様々な事態が展開してゆく。釈迦の言われる如く、本当に「世は移ろいやすい」 その一瞬一瞬を生きるべく頑張るのみだ。そして今週からいよいよ大学授業が本格的に始動する。そして有難いことに今年後半も非常にたくさんの舞台のお仕事を頂いている。このような時こそ、今、この瞬間に意識を集中し、本来の自分と自分の踊り狂う思い、思考とを区別しなくてはならない。・・・つまりこれがPower of Now・・・ 。「自らを島とし、自らを拠り所として、他を拠り所とせず。法を島とし、法を拠り所として、他を拠り所とせずにあれ。」 これは釈迦の遺言のような言葉(大パリニッパーナ経より) 過去も、未来もない、全てが今の積み重ねなのだ。今を生きずして未来はなく、そして過去は輝かない。 内なる自分に耳を傾け、雑音をカットし、周囲に感謝をしながら生きよう。

2011-09-26 06:22 | ひとりごと | コメント(5)