コロナ休暇の徒然なるままに 映画その3

私の三日目の映画は柴田昌平監督のドキュメンタリー映画「ひめゆり」。沖縄戦における、ひめゆりの生存者の方々が生の声によりその体験を包み隠さず、正直に話して下さるドキュメンタリー。その内容はあまりにリアルで、、、そして聞いているうちに不思議なことにあまりのリアルさに、それらがシュールに思えてくるのだ。でも本当のリアルというのは、その現実を肌で知らない僕らにはシュールに聞こえるのは当然なのかもしれない。つい前日まで学校の校庭で仲間と戯れ、将来の夢に胸を膨らませていた14歳から19歳の少女達。その少女達が送られた世界は想像を絶するものだった。その凄まじい医療現場の描写が淡々となされる中、何もない病院の施設で脚や腕を片っ端から切断される重症患者を押さえつけ、そしてその切断されたばかりの腕や脚を捨てる為に持ち運ぶ悲惨な現実を描写しつつ、それらが現実には徐々に麻痺してくるのだという。これ以上の描写は避けるが、もう、これはこの世の生き地獄だ。よくもこれだけ辛い思いを話してくださった。嫌だったに違いない。思い出したくもなかったに違いない。この映画のポスターにも書かれているが、「忘れたいこと」を話してくれてありがとう。本当だ!!僕は心の中で手を合わせながら感謝していた。これは僕らが今まで全く知らなかった事。もしかしたら一生知りえなかった事だ。しかも、これらは僕らが知らなくてはならない事なのだ!なぜなら現実にこの国に起こったことであり、誰もそれを今まで生の声で伝えてくれていなかった。今日まで幸せな僕らが明日はこういう状況にならないという保証はない。本当に貴重な証言だ。そしてこの純粋な、あまりに純粋な若い少女たちを襲う最後の軍からの指令、、、各自自由解散。本当に知らなくちゃ!!これがこの国のやり方であり、今も全く変わっていないのだから!!実はこの映画、5年前から息子と二人で必ず6月23日、つまり沖縄戦終結の日に一緒に見に行っているのだ。息子も日にちが近づくと、そろそろだねと誘ってくる。それくらいこのひめゆりの人々の証言に心を揺さぶられ、ややもすると「平和」という事を当たり前のように思ってしまう麻痺感覚を正してくれるのだ、この映画は!!帰りの電車で毎回息子と長い長い話をする。珠玉の時間だ。
実は事の始まりは6年前、息子が9歳だったころだった。3月10日の東京大空襲の日にNHKスペシャル特集ドラマ「東京が戦場になった日」をたまたま家族で見ていた。ドラマの内容はまさに東京大空襲で、あまり知られていなかった若者たちの悲劇を描いたものだった。帝都防災のために、「学徒消防隊員」(軍隊へ兵役猶予されていた理科系及び医系の学生)や「年少消防官」(18歳未満の少年)として駆り出され消防署に勤務させられた若者たちが、なんの訓練もなく当日空襲の中奮闘し、そして無残に犠牲者になって散って行くという物語。気が付くと、物凄い炎に包まれた東京を映す画面を見ながら、息子が目を真っ赤に腫らしながら大粒の涙を流し、テレビに向かって指をさし、大声でアメリカをののしっていた。9歳の息子がだ。「お前らアメリカ人をみんなぶっ殺してやる!バカヤロー!!」その声は震えていた。ちなみに息子はちょうど私が論文を書いていたころ、ボストンの病院で生まれたのでアメリカ国籍も持つ。だから余計に複雑だったのかもしれない。
これは大変だ!と事の重大さに気づいた僕は、その年を家族で戦争を考える年とすることに決めた。何故ならば僕の学問の専門は教育演劇学。実際に行動し、やってみて学ぶ方法論だ。もしこの状況をハンドルできないのなら、僕はこの学問を無駄に学んだ事になる。そう思った。三月の春休みにまずは鹿児島の知覧へ行き、特攻隊の展示などを見て回った。ちなみにそこを訪れた3月26日がなんと最初の特攻機がここから飛び立った日だと案内の方に教えられ、そして彼らが書き残していった手紙を読みながら家族で考えた。息子は混乱していた。そして5月の連休には沖縄を訪れ、豊見城市の旧海軍司令部壕から始まり、ひめゆりの塔、そして首里城の第32軍司令部壕跡などを回ってみた。沖縄戦を読みやすくした漫画、新里堅進さんの「沖縄決戦」を読み、比嘉 富子さんの「白旗の少女」を息子と一緒に読んだ。そして、この一連の学びの最終章として、夏休みにはアメリカに渡り、ウィスコンシン州の友人を訪ねた。ちょうど教育演劇の学会がミルウォーキーで開催されたのだ。アメリカの親友たちとしばらく過ごし、息子の誕生日(実に彼の誕生日は8月15日なのだ!!)を一緒に祝ってもらう。息子は混乱の連続だった。こんなに優しいアメリカ人と何故日本は戦わなくてはならなかったのか。なぜ優しい人間たちが悪魔のようになってしまうのか。、、、、などなど。その帰りにハワイへ寄り、パールハーバーを見学。戦艦アリゾナで真珠湾攻撃の悲惨さを学び、そしてその裏にある博物館にて終戦の際、日本が降伏文書に調印した船、戦艦ミズーリを訪れた。行く先々で息子と話しあい、戦争が何故起こるのか、そしてそれによって犠牲になるのは誰なのかを徹底的に話しあった。そしてミズーリの船上で、特攻に失敗した日本兵の若者が船長の判断により船員たちに懇ろに葬られた美談をききながら、実はこのミズーリ―号も沖縄戦においては沖から常に艦砲射撃をしており、例の「白旗の少女」などの周辺にその爆弾が被弾していたのだという事を考える。複雑だ。人間は置かれた立場により、まったく変わった方向性をもってしまうんだ。
息子は夏休みの終わりに、長い長い日記を書き終えた。そしてそこには大人も注目に値する考えが沢山ちりばめられていた。その翌年、沖縄戦の終結の日にたまたま上映会を知った僕が映画に行こうとすると、息子が「僕も行きたい」といってくれた。まだ10歳、、、果たして、、、と思ったが、でも彼はもうすでにたくさん学んでいたので大丈夫と思い、それ以後この映画は二人の自分たち自身に対する戒めの思いと、語り部の皆さんに対する感謝をするために訪れている。
2020-05-15 12:09 | つれづれなるままに | コメント

コロナ休暇の徒然なるままに 映画その2

元NHKエグゼクティブアナウンサーの村上信夫さんより映画バトン頂き、第2日目です。
今回は、「天平の甍」1980年版。1957年の井上靖の歴史小説を映画化したものです。僕はこの映画に非常に影響を受け、その後の生き方を変えられたといっても過言ではありません。この映画を見たとき、僕は仏教の「戒」というものに関して初めて真剣に考え、そして勉強しました。その約十年後に自らインドのブッダガヤ(釈尊がその下で悟りを開いたとされる菩提樹がある)を訪れ、菩提樹下で受戒をするという経験に繋がっていきます。
もともとインド(天竺)で発生した仏教には釈迦が説いた教え(経)と共に、釈迦が弟子たちに課した戒律(戒)というのがありました。その戒を釈迦より授かり、自分が仏教徒として生きてゆくという宣言をした時点から人は釈迦の弟子として仏教徒となります。つまり、クリスチャンが洗礼を受け、洗礼名を頂いて正式なキリスト教徒として生きてゆくのと同じことです。つまり、戒名とはクリスチャンネームならぬブッディストネームなのです。ゆえに、日本の社会の現状のように死後、高額なお金を払って遺族がお坊さんから名前をもらうというものではなかった筈。このことを深く考えさせられたのがこの映画でした。
当時の日本(天平の時代)には日本には釈迦の教え(経)は伝わってはいたが、その経に従い生きてゆく上での約束事(戒)を授けられる専門の僧の存在が皆無でした。勿論、従って戒律を授かる戒壇という設備もない。そこで大陸より、授戒できる高僧を招聘せよという聖武天皇からの命を受け、第九次遣唐使で大陸(唐)に渡った若い留学僧たちの話です。
普照(中村嘉葎雄)と栄叡(大門正明)は命がけで大陸に辿りついた後、様々な寺を訪れ、日本に戒律を伝えるべく同行してくれる僧を訪ね歩くが、当時国禁を破り自らの命を懸けて海を渡ろうとする僧にはなかなか会う事ができなかった。そんなある日、742年、二人は揚州の大明寺の住職であった鑒眞(鑑真)のもとを尋ねる。多くの弟子に鑑真は渡日の希望を尋ねるが、危険を冒してまで渡日を希望する者は誰一人としていなかった。すると鑑真が自ら同行しようと名乗りでる。真の教えを命を懸けても布教する仏教の本来の布教の精神を遂行する為だと、、、それに心打たれた21人の僧も同行を希望する。だが、5回、出国を試みるが5回とも密告、難破などにより出国に失敗する。
僕は、もともと遣唐使、遣隋使に憧れていたのですが、それに加え、この経験の少し前に出会った新渡戸稲造の「太平洋の橋になりたい」という言葉、つまり異文化にかける橋になるという夢を持っていました。そこでこの遣唐使の話に興味を持ち、映画を見たわけですが、インパクトはそれ以上のものがありました。こののち僕は鑑真和尚の由来の寺である奈良の唐招提寺を訪れ、鑑真和上に心より御礼を申し上げました。現在では入手が困難なようですが、この映画はお勧めです。真の仏教徒の生き方が見事に表されています。
2020-05-12 12:03 | つれづれなるままに | コメント

コロナ休暇の徒然なるままに

元NHKエグゼクティブアナウンサーの村上信夫さんより映画バトンリレーのバトンを渡して頂きましたので、今日から僕も参加させていただきます。
【人生を変えた映画バトンリレー】~life changed movies
このバトンリレーは人生を変えた映画を7日間連続でご紹介する映画リレーです。
・中身の概略はオッケー詳しくは内緒
・なぜ選んだか?
・何が変わったか?
・おすすめポイント
など、自由に人生を変えた映画を紹介するバトンリレーです。
僕の第一回目はこれです!!「MR Holland’s Opus: 邦題:陽のあたる教室」です。1995年のアメリカ映画です。主演のリチャード・ドレイファスは1995年アカデミー主演男優賞候補になりました。
舞台は1965年のアメリカ、作曲家を夢見ていた元バンドマンのホランドは夢を叶えるまでの一時的な経済的な安定を求めて、「腰かけ」のつもりで高校の音楽教師を始めます。彼にしてみれば音楽教師はプロの音楽家から見ればランク的には下という認識。そういった動機ですので、彼は適当に授業を済ませるとさっさと帰宅し、作曲に励みます。女性校長のヘレン・ジェイコブズはそんな彼の態度を窘め、本来の教師の道を説きます。
そんな彼は、やがて、音楽が退屈で全く興味を示さない若者たちにどのように本来の音楽の魅力を教えるべきかを模索し始め、教科書を捨てます。そしてその過程で、改めて自分の音楽をやる意義を学ばされることになるのです。生徒一人一人がしょったコンプレックスなどにきめ細やかに立会いながら、その個々の長所を見つめさせながら、次第に生徒たちの中に音楽に対する関心がわき始め、また自分の中にも音楽教師としての誇りが自覚されるようになります。そんな中、妻の妊娠をしり、もう作曲家の夢をあきらめて教師の道を進むしかないと決心します。しかし、そんな彼に次々に試練が、、、一生懸命指導した女学生との間に恋心が芽生えそうになったり、魂が触れ合った学生が戦士したり、あるいは成長して立派になったり、本当に心が動かされます。最後も圧巻です。教師の喜びってこうなんだ!!というクライマックスです。僕は現在も早稲田で担当する「教育演劇学」なる授業で、この映画を必ず学生に見てもらう事にしています。一緒にみていると、必ず最後に目にあふれる涙を必死に学生に見られないようにしている自分がいます(苦笑)
映画のカバーする年代は広範囲にわたり、その中に60年代から90年代の様々な名曲が各所にちりばめられており、時代の流れを肌で感じる事ができます。まるでその時代が体の中によみがえるような感じです。そして、実はこの映画は僕の青春をなぞっているような気分にさせる出来事がいくつかあります。多少ネタバレの感はありますが、その一つを、、、、、劇の後半ホランド先生の学校は、アメリカの80年代のレーガン大統領による予算の削減という事態に遭遇します。そこで学校が下した最後の決断とは、、、、今でも横行しておりますが、一番「なくてもこまらない、、、少なくとも困らなく見える、、、芸術科目を割愛すること」でした。それゆえ、ホランド先生をはじめとする芸術系の先生がみな解雇を余儀なくされる、、、これ以上はお話ししませんが、実は僕自身この影響をもろにかぶった青春時代でした。
1981年に、ニューヨーク州立大学で演劇学を修め、次の大学院修士課程を当時盛んだった「教育演劇学」のメッカ、シアトルにあるワシントン大学で学ぼうと燃えておりました。学科審査、面接などを終え、合格通知をもらい、いよいよ9月からの入学を夢見ていた時に、一通の手紙が日本の実家に届きました。「大規模な政府予算の削減により、当大学の教育演劇学科は閉鎖されることになりました!!」 「えええええ~~~~!!」僕はそこで学ぶ事を夢見ており、そこしか受けていなかった!!結果、留学浪人(厳密には当時まだ間に合ったハワイ大学大学院で短期間アジア演劇の勉強をするのですが)をして、もとのニューヨーク州立大学の修士課程にもどりますが、この時ほど、芸術科目のあやうさ、、、人々のそれに対する認識の甘さを実感したことはありませんでした。
また、この映画の中では80年の12月8日に起こったジョンレノンの射殺事件も全米を揺るがすニュースとして扱われ、登場人物たちも動揺しているのですが、僕はちょうどジョンがころされた12月8日にニューヨークにおり、その衝撃を全身で味わい、恐怖に震えていた事もありました。まさに青春のページを一ページ一ページめくるような感動の映画です。この映画は私に教育演劇という分野に40歳過ぎてから今一度挑戦するチャンスを与えてくれた映画です。結局ニューヨークでは演劇史など一般演劇理論を学びまあしたが、その後41歳にて、一度舞台を離れ、再度渡米し、この芸術教育を再び研究するチャンスをくれた映画です。
2020-05-08 12:02 | つれづれなるままに | コメント