応用マイム

最近また本を書き始めた。テーマは「応用マイム」。以前から書きたいとひそかに思っていたテーマであったがなかなか時間が許さなかった。(もっとも、現在も決してそんな暇ないのだが・・・)マイムは鑑賞目的以外にもその利用価値は計り知れないほどあるということを世に知らしめたいと思っていたのだが、実際にどのようにそれらを論証してゆくかが難しい。以前のテレビインタビューなどでもその側面は実際に自分でも語っているのだが、これが正式に論証するとなると時間とリソースが必要になる。学術的な論証はおそらくまだ将来になるだろう。しかし、なんとかしてこの可能性を自分が論じ始めなくてはならないと思っている。今主流になっている文字による学問に対して身体的な感覚を駆使して学びを積み重ねてゆくということがいかに大切なことか。実際に最近は企業や成人を対象としたワークショップにおいてもこの応用マイムの手法の価値がかなり認められてきているのだ。カンジヤマにはこうした方面からの問い合わせが多い。しかし、何にもましてこれからの将来をしょって立つ子供たちにこそこのような身体知を経て学ぶというプロセスを伝えてゆきたいと思っている。頭でっかちの大人たちが今の[人に冷たい]世の中を作ったとしたら、身体を通じて人間の暖かさを学んだ子供たち、身体を通じた感性で経験知を構築した若者たちにこそ将来を託したい。ん~、難しいな。どうやって解説したらよいのだろうか。七転八倒の日々である。

2008-12-03 01:29 | ひとりごと | コメント(1)

採点、舞台、演出、舞台、指導、舞台

長い間ブログを滞らせてしまった。多くの方々からブログの催促メールやらお見舞いともとれるメッセージをいただいた。申し訳ない!!舞台とともに計140人以上の中間試験採点(しかもうち120人以上が英文でのエッセイ試験ーこれが字が読めないのが多い;涙)に追われ、学生の公演指導で帰宅が深夜すぎたり、クラスの発表指導で深夜までプランの書き直しをさせたり、就寝が3~4時を過ぎる日々が続いたのでかなり身体に響いてしまった。コーヒー飲みすぎで胃が荒れてしまったようだ。やはり大学二つと舞台のかけもちはかなり年齢的にきつくなってきている。が、しかし、そんな中で変な充足感が沸き起こるのはかなりのM的な喜びなのだろうか(苦笑)やはりやりたいことができているという幸せが疲労感の中にもあるのかもしれない。もっとも舞台が発散の時間になっていることは確かだ。
最近ある人から勧められて「博士のワーキングプア」とタイトルがついたUチューブをみた。大学非常勤講師がたどる悲惨な経済的状況をドキュメントしたものだが、さすがに非常勤講師だけで食べている人々は悲惨だなとつくづく思った。ん~、「芸は身を滅ぼすのか、あるいは身を助けるのか」昔から様々なことが言われてきたが、今のところ身を助けてもらっているようだ(苦笑)
いよいよ12月、今月は関東内の仕事の他、関西方面の仕事が多い。神戸、京都と何回かに分けて行く予定。しかも出発はつねに大学授業終了後なのでこれまた深夜の運転になりそうだ。そして26日から年始にかけては再び豪華客船の旅、飛鳥II号!!年始は4日に帰国直後すぐに大学の授業と鈴本演芸場が始まる!!師走、というが、まさに走りつづけるのは年末だけではなく年始にもすぐに始まる。(ああ、めまいがしてきた:汗)
写真(下)はハーバート・スペンサー ソシアルダーウィニズムの創始者といわれる;ウッフッフッフ、この社会の個人も民族も適者生存なのだよ!って怖いこと言っていたな、この人。はたしてカンジヤママイムは適者となりうるのだろうか?苦笑

2008-12-01 06:54 | つれづれなるままに | コメント

文化に貴賤は無い!

20日の読売新聞「論点」に元イェール大学準教授のマイケル・オースリンという人物が寄稿した文章があった。その論旨に対して、またそれと同時に今の社会の風潮に関連付けて一言文句が言いたくなった。要約すればこういうことだ。つまり過去長い間、アメリカ人は版画や生け花、仏教などをはじめ、黒澤明監督の映画などすぐれた日本文化への関心を持ち続けた、そしてその文化を発信する日本という国を重要な国だと位置づけてきたが、昨今の状況が劇的に変わったという。その例として黒澤映画の代わりに米国の若者はアニメを見るようになり、アカデミアにおいても授業の内容に伝統的な文学などに代わって漫画を使用するクラスがでてきた。そして日本文化への関心がこのようなポップカルチャーになったという事実は米国人が日本の経済、政治といった側面について語らなくなったという事を意味すると同時に、日本のそういった側面で活躍できる米国側のエキスパートが少なくなるということであり、日本を重要視しなくなり、今後の日米パートナーシップに多大なマイナスの影響を与えかねないということだ。
確かに、この論文のある主旨は納得できる、なぜならば私の妻も上記のような傾向を肌で感じてきた一人であるからだ。彼女は97年より米国において日本語講師をしてきた。こういった日本の経済、政治に関する関心の薄れの傾向とポップカルチャーへの憧憬は彼女が最近まで教鞭をとっていたハーバード大学においても顕著に感じられたという。もっともこの傾向は実際にはバブルがはじけた直後あたりからじわじわと見え出していたそうだ。しかし、同時にこの文章の論旨の中には自分にとっては納得のゆかない、そして大きな偏見が見え隠れする多分に不快なものでもあった。つまり過去における日本の伝統文化や、近代の黒澤映画に代表されるすぐれた文化産物を称賛していると同時に、アニメ、マンガなどに代表される日本のポップカルチャーをその対極に据え、「軽さ、軽薄さ, 不真面目さ、重要でないもの」の象徴として位置付けているのが明瞭だからだ。声を大きくして言いたい。文化に貴賤は無い!! もしもあるとされたなら、それはあくまでも二つの原因によると信じている。それは、その文化を語るものの間違った先入観と、その文化を擁護するもの個人の人間としての質の問題だ。
上記の一つめであるが、まずポップカルチャーを語るものの問題である。アニメ、マンガなどのポップカルチャーを侮るのは、その深さを知らないものが先入観と限られた知識の中でそれらを自らの論旨に都合のよいように定義しているからに過ぎない。自分もポップカルチャーに精通しているわけではないが、あくまでその深さ、多様さを垣間見るときにこれらの文化の水準は他の伝統文化に決して劣るものではない。ただその語り方や切り口が違うだけだ。もう一つの貴賤さを連想させてしまう原因があるとすれば、その文化を紹介し擁護する人間の質の低さだ!たまたまある文化を擁護した人間の質が低いからといって、その人間の質と文化自体の価値、この二つを絶対に混同してはならない。
最近の週刊誌の中吊り広告の見出しだけを見てもこの二つ(文化自体の質とそれを擁護する人間の質)が大きく同一視されているのに大きな憂いを感じている。そしてそれが一つ目の「文化を語るものの先入観、偏見」によって更に大きく歪められている現状がある。たとえば、いま現在の週刊文春=(漢字だけではない、麻生太郎の「マンガ脳」)、週刊新潮=(マンがばかり読んでいるからだ!・・・「おバカ首相」麻生太郎)、これらを始めとしたマンガへの先入観を悪用したプロパガンダ的な言説を助長するような文章が横行している。つまりこの場合は漫画という文化を擁護し愛読する主体の質が問われるべきであるのに、それがマンガという文化に対する攻撃そのものとなっている。これは伝統的な学校教育の体制側からの偏見的な視線によってマンガ=知識の欠如、低能などという図式を強調されることによってこの二つを同一視するように仕向けられているのだ。そしてこういったチャンスを逆手にとり、マンガ過小評価に走る人間ほど自らの中に無意識のうちにしみ込んでいる学校教育弊害を正当化しながら、自分はその外にいることで安堵を感じているのだろう。
ここであえてもう一度言いたい。マンガおよびその他のポップカルチャー自体の質がそれによって過小評価されてはならない。実際にマンガを知るということは今の世の中の物事の受け止め方を知るという大切な方法であり、またこういったポップカルチャーの中には斬新な学びの要素が多く潜んでいるのだ。IQベースの従来の教育制度にどっぷりと浸かってしまった日本人。これらの制度の中ではマンガはご法度であった。言ってみれば従来の教育制度の中では、これらポップカルチャーはまさに戦時中の英語のような敵国語としての位置づけだった。しかし、これからの若者のポテンシャル、潜在的可能性を信じたい人々には自らの中に無意識にしみ込んでいるこういったポップカルチャーに対する先入観に盲従せずに、まずはご自分の目でそれらの奥深さを確かめてもらいたい。そして米国の若者が、いや世界の若者がこういった日本の今の感性を知ってくれるということは今までの建前だけの外交ではなく、より日本人のメンタリティーや感受性を理解した上での付き合い方の指標として役に立つことは確かだと思うのだがいかがだろうか。ちょっと硬かったかな?苦笑

2008-11-21 12:39 | ひとりごと | コメント(2)