戦術の無い国

今年の初め、母親が暫く我が家に泊まっていたので、その母親に是非孫に直接いろいろ語って欲しいと思い、(母親のリハビリを兼ねて)あえて8歳の息子と一緒に「永遠のゼロ」を鑑賞した。母親は大正13年生まれなので昭和の年代と自分の年齢が一緒。丁度一番多感な青春時代、それこそ16歳から20歳までを戦争という大きな出来事に巻き込まれながら過ごした。最近短期記憶が徐々に弱くなる一方でこうした若いころの経験はかなり詳細に覚えているのには驚く。実際に自分は幼少のころよりこの母親と、3年前に亡くなったほぼ同じ年の父親に年中戦争体験を語られながら育ったものだった。父親は実際に東京大空襲直後に東京下町で軍人として後始末に加わった経験をよく話してくれた。そして8月15日には家族ですいとんを食べたものだった。

8歳の息子は初めて見るCGによる空中戦やら真珠湾攻撃、ミッドウェイ海戦、いやそれにもまして特攻隊という事実にかなりショックを受けたみたいだった。映画が終わった後の帰路、顔をひきつらせ、アメリカが憎いと呟き始めた。アメリカなんか・・・と。勿論、彼には自分がアメリカ国籍をもったアメリカ人でもあること、そして私の大切な友人がたくさんアメリカ人にいて彼らが今まで如何に自分を助けて励ましてくれたかをとくとくと話し、彼の頭は混乱を極めていたようだった。そして、これがその後、仏教やガンディーの非暴力思想を息子に紹介するきっかけとなったのだが。

あれから約半年、今息子は太平洋戦争に関する本をむさぼるようにして読み漁り、ゼロ戦や空母の模型やおもちゃを集めながらいろんなことを学び続けている(まったく本人が勝手に学校の図書館から毎日のように歴史の本を借りてくるのだ)毎朝起きると、「パパ、ミッドウェイ海戦ではね、アメリカはすっかり日本の暗号を解いていて、あらかじめ日本が攻めてくるのをわかっていたんだ。」、「デバステーターの攻撃に気を取られていたゼロ戦のスキをついてドーントレスが空母をねらい、撃沈したからゼロ戦は帰還する船がなくなったんだよ」小学校3年生とは思えないような話題を仕掛けてくるのにはびっくり。ただ、父親としてもそうそうは無知ではいられない。最近暇さえあれば、息子がどんな本を読んでいるのかをかいつまんで読むことにしている、

そこで愕然と再確認することは、戦争における日本の敗北の原因とは、日米両国における比較にならない物資の差であることは間違いないのだが、さて、それ以上にやはり戦術に長けたアメリカに対してのあまりにも無策な日本と言う事にため息がでてくるのだ。あらゆる面でアメリカは敵国日本を徹底的に研究していた。ゼロ戦を捕獲し、それを徹底的に飛ばしてその長所と短所をチェックしたり、またはかの有名な「菊と刀」のルース・ベネディクトのように敵の考え方、価値観を徹底的に解明し、それを具体的な戦い方に生かしてゆく。一方日本は相も変わらず同じ精神論を最優先し、そして無策なうえに、敵国語として英語さえも拒絶していた。相手を知らずして精神力で勝とうとしていたようだ。その上、国体の護持と言う事の為に、一人一人の国民の命が物の如く無駄にされたという事実。永遠のゼロは素晴らしい映画だったが、その感動を徹底的に味わった後に来るこの虚しさは何かとつくづく感じていたのだが、やはり国のあまりの無策さだった。(蛇足で言えば、この精神力至上論を追い続けて遡ると日露戦争勝利後あたりに行き着くことを博士論文研究中に知って驚いたことがある)

そしてこの無策ぶりが今も相も変わらず続いている事にさらに驚愕する。原発推進の裏の万が一の事態に対する無策、事故とその後処理に関する無策。まったくあきれるくらいの無策ぶりだ。そしてそれにより軽んじられる国民の命。これはまさに戦前からずっと変わらない日本政府の実態のようだ。昨日のニュースで「吉田調書」によるとドライベント(水を通さない、そのままの放射能放出)がまさに住民に通告なして行われようとしていたという。こんなふざけた事が日常茶飯事でお上の判断に盛り込まれているのが日常だ。パニックを起こすからという理由でスピーディーを公開しなかったり、メルトダウンを認めなかったり。この原発事故はまさに日本の今まで問題視されてこなかった日本の政策の戦術性の無さを改めて露呈し、問題提起している。これは年金問題にしても赤字国債でも、そして憲法解釈問題にしても同じような無策ぶりが感じられる。

と同時に、永遠のゼロを見ながらつくづく思う事があった。それはブレヒトの劇の異化効果についてだ。ブレヒトは観客が感情移入せずに理性で舞台上の出来事を冷静に分析、判断し、実際の社会運動につなげる努力をした。だが、しかし、彼の試みは初演の「肝っ玉かあさんとその子供たち」から逆に観客を感情的に感動させてしまい、苦渋の台本書き換えを続けたのだが、あまり成功はしなかったのが現実だ。そこで何かが欠けていたような気がする。それはやはり観客は感動、喜び、楽しみをもとめて劇場へ足を運ぶと言う事。それが割愛されてしまったら学びは起こらない。あるいは起こったとしてもいわゆる「preaching to the converted」(既に同意している人々に対して行う説法)のようなものだ。本当に問題を舞台や映画で提起するためには(一部のドキュメンタリーをのぞいて)、まずは観客を感動させねばならない。そしてその感動の為に何度もその劇や、作品に足を運ばせるくらいにならなくてはならない。その何度かの鑑賞の後、やがて感動という大きな波のうねりの向こうにやがてやってくる冷静な判断。これが本当の異化効果なのではないだろうか。つまり異化効果(少なくとも私の理想とする)は感動ゆえにその感動を何度も求めた結果得られる冷静な現実把握をベースに行われる判断ではないかと以前から思っていた。この永遠のゼロはまったくそれを実証している。この映画の感動を何度もなぞるプロセスでやがてその向こうにある理不尽さに気づく時が来る。つまり当たり前だと思ってみていたことに違和感が生じる。そしてこれを冷静に見ることにより、この作品が提示する問題点を判断できるようになる。これこそが本当の異化効果なのではないだろうか。

永遠のゼロをみて多くの日本人は感動する。では何に感動するのか。それは個人の同胞に対する自己犠牲の愛である、最初は単純にそれでいいと思う。だが、何度も感動してみよう、すると、でもそれが結果的には他(とみなしている同じ人間)を殺す結果になっている事がわかるのだ。安倍首相は、やはりこの映画に感動したという、だが果たしてどんな感動だったのだろうか?単なる愛国と言う事への感動だったらそれは単純で危なすぎる感動だ。今こそ日本は戦術を学びそして慎重に過去を振り返り、この感動の向こう側にある、沢山の事を学ぶべきではないだろうか。私はもう一人として若者たちにこんな無駄死にはさせたくない。(写真は靖国神社でゼロ戦の前に立つ息子)

2014-05-23 06:21 | つれづれなるままに | コメント(5)

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