アバターとハートロッカー

アカデミー賞が話題になったのは少し前だったが、自分の目で確かめるまで何も言うのはやめようと思ってできる限り比較を控えてきた。しかし、旅の合間にやっと時間ができたので映画館に飛び込んでアバターを見た。「売り」の3Dはさして自分にとってはそれほど驚くものではなかった。しかも3D用のメガネのサイズがOne size fits all (いわゆるフリーサイズの一種類)だったので、自分にとっては小さすぎて物凄く不快な時間だった。
ストーリーはもろ西洋の植民地主義、あるいは帝国主義を名指しで批判するというものだったのだが、あまりにもそのキャラクターやストーリー仕立てが如何にもハリウッド映画的な紋切り型だったのが惜しいと思った。ただし、これを見ることによってやはりアカデミーショーはハートロッカーだろうなと自分は納得した。つまり、ハートロッカーは単につい最近のアメリカの政策(主にブッシュ政権)の一部を批判するものだが、かたやアバターは西洋文明の歴史全てを根本から否定するものだからだ。つまり植民地主義、あるいは帝国主義を否定したならば西洋の歴史は成り立たなくなる。イラク戦争批判は往々にして西洋人の一般市民にも今では容易に受け入れられることだし、世論をバックにつけられる可能性はあるが、アバターの場合はその西洋文明の存在、あるいは発展の根拠そのものの否定だ。これがもしアカデミーショーをとったらかなりまずい事になると西洋人のジャッジさん達は意識的にではないにせよ、腹の底で感じていたのではないだろうか。ずばりこの映画の科学者が思いめぐらす原住民との初期コンタクトから植民地化へのプロセスは西洋社会が行ってきた蛮行だと思った。ハワイ統合にせよ、もっとさかのぼってアメリカ大陸、そしてその他のアジア諸国における西洋人たちの物語すべてがこの筋書きの中で象徴的に語られていた。
大体においてこの映画の売りの中心が3Dという事自体がそのテーマを覆い隠してしまっているのかもしれない。逆にこれが3Dでなく、もっとキャラクターなりストーリーが練られたものだったらもしかしたら・・・といった憶測もなきにしもあらずだが、それにしても3Dの売りの陰に隠された西洋文明批判は自分にとっては心地よいものではあった。
(追記)昨今のイルカ、あるいは捕鯨問題を見ていてもこの帝国主義的な言動が目に余る。自分の考え、文化が至上のものだという短絡的な考えでもって価値判断を下してしまうこの根底に流れているのは紛れもない西洋至上主義ではないだろうか。。(ちなみに自分は鯨肉の問題に関しては別の意味で反対している、特にその肉に蓄積されている水銀値を考えるととても食用には適さないのは明確だ)。自分以外の他の文化はギリシャ時代から彼らはバーバリアン(蛮人)と呼び、低俗で支配されても正当化される存在だったのだ。
そしてそれに関する映画「コーブ」のやり方もまったくシー・シェパードと同様の強引さが見られる。これが受賞してアバターが受賞しないのをみても保身以外の何物でもないのではないかと思わざるを得ない。自らの恥部、愚行には覆いを施し、他の責任を大上段に構えて徹底的に追及する。まさに西洋の歴史上の姿そのままを反映しているのではないか。

2010-03-27 12:02 | ひとりごと | コメント(1)

アバターとハートロッカー への1件のコメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。