怒涛の日々のあとで

四日市の高等学校での芸術鑑賞会を終え、帰京した。徹夜の論文提出から連続移動の旅公演、そしてあと数回の大学講義と芸術鑑賞会公演で今年は終わりだ。走り続けたあとの息切れが感じ始められる。だが、そんな中に数多くの御礼の手紙、メール、そして感想などが送られてきて自分の疲れを吹き飛ばしてくれる。夕べから今朝にかけても公演した四日市の高校の生徒さん達から直接のメールやらブログにコメントをいただいた。自分にとっての癒しだ。
そんな癒しの一つが旧知の仲間、先輩などとの再会だ。四日市の近くにお住まいの長いおつきあいをさせた頂いている曹洞宗のお寺のご住職と奥様がわざわざお出かけになってくださり、公演後に楽しいランチにお誘いくださった。つかれた後での本当に楽しいひと時だった。このご縁は、もともとインドのブッダガやに赴いた際に出会ったある僧侶の方とのご縁で全国に広まった仏縁なのであるが、こういった皆さんが旅にゆく先々で暖かいおもてなしをしてくださる。今回も尽きない話のなかで、そのご夫婦の奥様の弟さまも(普通のお仕事から)僧籍に入られて岐阜県のとある町で住職をされていらっしゃると伺った。そしてなんとクリスマスにはお寺で近所の子どもたちの為にサンタクロースになって楽しませていらっしゃるとのこと。この和やかな話を伺ったときに、2年前に、やはり12月のこの時期に伺わせていただいた東京目黒区の八雲学園の事を思い出した。http://kanjiyama.exblog.jp/6765494/ 参照。
その時にも述べたのだが、西洋と日本との宗教観には物凄い隔たりがあり、もしもアメリカでこのような事(ある宗教のリーダーが他宗教のお祝いのまねをするなどの事)があったなら必ず、裁判沙汰になるのだ。その時にも述べたが、日本人の宗教感とは本当に不可思議で、「ある種の曖昧さの中にも、その懐の深さがあり、そして皆でいろいろ祝おうという素敵なコミュニティースピリットがあるのだ」と。そしてやはりその時に述べたのだが、同時通訳の神様、国弘正雄先生がこの二つの文化を称して、西洋のの宗教観はmuturally exclusive (つまり他者を常に排他するもの)であり、日本のそれは muturally permeative (つまりお互いを受容しつつ認め合うもの)だと見事に表現されていらっしゃった。つまり先日民主党の小沢さんが発言して論議をかもした「排他的なキリスト教」とはこの西洋的宗教観の事なのだ。
何でもかんでも白黒はっきりさせて、それが違うからといって訴訟を起こしたり、殺し合いにまで発展したり・・・・これが人間の歴史の軸になっているような気がする。今までに宗教の名の下、神の為という大義名分の為にどれくらい多くの人間が殺され、迫害されてきたのだろうか。すべて殺す方は「正義」の名のもとに行ってきた残虐行為だ。例えばイラクがキリスト教国だったらブッシュはあのようにいともたやすく攻撃に踏み切っただろうか?何十万人という何の罪もない女性や子どもを殺害しただろうか?(小泉さん、あなたも同罪です)
それよりも、僕は坊さんがサンタさんになって近所の子どもたちに夢を与えながら、お寺になじませ、またその僧侶になじませて、「いつでも悩みがあったらいらっしゃい」とじっと待っていてくれる方が素敵だと思う。教義やら神の名を大上段に構えて、「さあ、神の声をきけ!」って、所詮は人間のエゴにしか聞こえない。もともとキリスト教だってそんなエゴイスティックな教えではなかったのではとも思う。いつでもいるよ。いつでも一緒にいるよ。ってイエスは弱者に語りかけている。それを「こっちを向け、私の話だけをきけ」っていつの間にか人間のエゴが作り変えてしまったのだろうか?
写真はそんな四日市の街で見かけたBuddhaという名前のお店(ブティックかと思われるが)。その名前のお店のショーウィンドーにはデカデカと「メリー・クリスマス!!」(爆) これを見ていたうちのスタッフは声をそろえて「これある意味、狙ってませんか?」「もし狙っていたら見事ですよね(笑)」 

2009-12-18 05:35 | つれづれなるままに | コメント(3)

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