サマーウォーズ

先日たまたまちょっと用事があり、立川へ出ていた時に時間があまったので衝動的に近くの映画館にはいり、映画をえらんだのだが、見たいものがあまりなく、最終的なチョイスとして「サマーウォーズ」を選んだ。そして今朝の新聞をみると、なんと鳩山次期首相が三党協議の後、この映画をみて勇気づけられたというではないか!!(苦笑)
自分の見たのは2時45分からの昼の部だったが、満員だった。面白かったのだが、いろいろ考えさせられた。一言でいえば、なんだかこれって一人のナルシストの頭の中で起こっている空想のような映画だった(苦笑)。各所にかなり無理やりなこじつけがあって気になったのだが、その極みがやはりあまりに個人的な私的グループ空間の中で世界を救うという突拍子もない発想だろう(苦笑)。これって誰でも幼いころの白昼夢で自分をヒーローにしたててやった遊びではないか。しかも最後は花札で地球の運命が決まる?!すっげえな(爆) すべてがどうもゲームの発想なんだ、今の世代は。でも反面ある意味でモニターの中の仮想世界が現実をコントロールしてしまうというリアルな可能性も含んでいたから面白かったが。
もっと面白かったのが表面的な話題は現代のものなのに、その根底では日本が亡くしたものへの憧憬、郷愁がふんだんに感じられること?!。大家族のつながり、田舎の風景、そして祭り。風習、家風などなどこれって今の子供たちには実はあまりなじみのないものかもしれないかな~なんて思った。つまり大人たちの郷愁としてにじみ出ているのだ。しかし、これが教育ってやつかもしれない。知らぬ間にこれが日本の伝統だ!なんて教え込まれているのだ。昔論文書いている時にであったエリック・ホッブスボーンの主張が思い出された。
Eric Hobsbawm contended, “‘Traditions’ which appear or claim to be old are often quite recent in origin and sometimes invented” (Invention of Traditionより) つまり私たちが古来からの古い伝統だと思いこんでいるものは実はかなり最近のものであり、社会的に作り上げられたものだということ。家庭という概念にしても実は明治初期までこの概念は一般の日本人にはとても馴染みの浅い
概念だったそうだ。そして明治中期から特に大正にかけてプロテスタントの夫婦に於ける”home”という概念が徐々に広がり、(これにも紆余曲折あったらしい、たとえばプロテスタントではあくまで夫婦の愛情が中心の平和で穏やかな風景を家庭と呼んだのだが、日本ではお見合いなど諸事情で愛情などで結ばれた関係ではなかった)、やがてこのhomeという言葉が「家庭」と訳されて定着し、大正時代に「家庭~」と名付けられた雑誌やら展示会が雨後の筍のように出現し世の中のキーワードになるのだ。ちなみにこの日本における家庭(home)とはプロテスタント的夫婦愛とは一線を画しており、日本なりに消化吸収されるには、夫婦の共同作業である「子育て」がその共通項になったという(小山静子著「子供たちの近代」(吉川弘文館より)。 
そしてこの家庭教育の中心が「良妻賢母」として母親の役割となったのもこの時代。(女性は悲しいかな明治初期までは教育にほとんど携わることはなく、極端に言えば「子供を産み家を継続する道具」のように扱われていた。つまりこういった家庭、良妻賢母といった一見伝統的な風景はごく最近のものなのであり、江戸や明治初期には存在しなかったものなのだ。
それではそれ以前の日本では家族とはどんなものだったのだろうか?当時東京帝国大学で教えていたBHチェンバレンが”things Japanese”という本の中で1891年に目撃した日本の家族についての驚きを書いている。つまり当時の日本の人々は好き勝手に、そして本当に気軽に養子縁組の契りをを取り交わし、一家の中に何人もの血のつながりの全く無い人間たちがお互いを兄弟、あるいは叔父、叔母と呼びかわしており、その上丁稚奉公やらいそうろうなどがたくさん集まって一つ屋根の下にくらしていたという。何もかもが家の仕事を継ぐ、財産を継ぐ、そして家名を途絶えさせないといったしきたりから来たものだという。そして現れた近代の「家庭」という結婚を前提とした夫婦をコアにした単位。こういったものがやがてさも大昔から存在した日本の伝統のように語られてゆく。これも文化の一現象かもしれない。
因みに鳩山さん何をこのアニメから学んだのだろうか?(笑)

2009-09-10 10:08 | ひとりごと | コメント(1)

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