中山晋平の生涯

吉祥寺にて中山晋平の生涯を描いた映画「シンペイ-歌こそ全て」を観た。 自分の博士論文の時代背景の話なので様々な劇中の事件やら出来事が手に取るように背景までわかるので非常に楽しめた。中山晋平は若くして上京し、芸大を目指すが、金銭的な事情で早稲田の教授であった島村抱月の書生としてしばらく島村の家に身を置き島村の様々な活動を支えることになる。この時期、島村は坪内逍遥先生とともに早稲田の仲間たちと文芸協会を立ち上げ、日本初の西洋現代劇の舞台上演、イプセンの人形の家を演出し、日本の演劇界を牽引していた。だが、その主役、ノラを演じた松井須磨子と情熱的な恋愛関係に陥り、妻子ある身を顧みず家を出て須磨子と生活をともにすることになる。その事が当時のマスコミのスキャンダルとなり、須磨子は文芸協会を追放され、それを追うように島村も協会を辞し須磨子と芸術座を立ち上げる。この一連の恋愛の中を島村と須磨子の間を行き来し秘密の恋文などを運び続けたのもまた中山晋平であった。のちにその恋文の内容は河竹俊夫先生が著書の中で一部を暴露しているが、読んでいても当時の燃えるほどの情熱が伝わってくる。  文芸協会から独立後、芸術座を立ち上げた抱月と須磨子はその第3回公演、トルストイの「復活」にて、中山晋平の作曲で日本初の劇中に挿入歌を加え、このカチューシャの歌が大ヒットする。これが1914年。またその翌年にはツルゲーネフの「その前夜」を上演し、ここにも中山晋平の作曲の「ゴンドラの唄」を挿入し大ヒット!だが1918年に世界的に流行したスペイン風邪によって島村は帰らぬ人となり、その2ヶ月後須磨子も後を追い、自らの命を絶つ。実は、つい先日訪れた早稲田の演劇博物館にて坪内逍遥先生に最後に宛てた松井須磨子の自筆の遺書の展示を初めて目にしたばかりだったので、あまりに彼女と島村抱月の一連のスキャンダルが生々しく蘇った気がした。また、そのスキャンダル直後の島村と坪内逍遥先生の会話がこれまた非常に重々しく迫って来た。もしあのまま抱月が文芸協会に残り、演出を続けていたら日本の演劇史は変わっていたかもしれない。そんな考えが脳裏を過ったが、しかし、それはあり得ない、それほど当時の新聞雑誌には大々的に二人の不倫が報じられた。そしてこの出来事は後の坪内逍遥先生の活動内容にも大いに影響を及ぼすことになる。後に坪内逍遥先生が文芸協会に設置した養成所では、男女の交際は非常に厳しく禁止され、ある時など、降り出した雨のため、一つしかない傘に入って歩いていた俳優の男女が養成所を追放となった事もあるくらいだ。その後出版される「児童教育と演劇」という日本初の児童劇論に於いても坪内逍遥先生は児童劇の年齢を思春期以前と定めることになる。どれほどこの男女間の問題に悩んだ事かが垣間見られる。それにしても、私が自分の分野で中山晋平を知るのはここまでであり、正直、その後の活躍はさほど詳しくはなかった。私にとり、中山晋平の存在は今まではあくまで島村抱月の書生として島村の活躍を様々な形で支えて来た存在としてでありました。今改めて彼の人生を独立した芸術家として見る時、その偉大さに改めて感銘を受けました。恐るべし天才音楽家、常に日本の庶民が楽しめる要素を追求し続けて、一見高尚な演劇や音楽を庶民が心から楽しめるところまで追求し続けた怪物でした。芸術が何たるか、どうあるべきかを改めて学ばせて頂きました。

2025-01-19 09:46 | つれづれなるままに | コメント

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