末広亭楽屋にて

新宿末広亭での寄席出演が続いている。寄席によっては楽屋が噺家さん達と一緒の所と、別々になるところがあるが、ここ末広亭は一階が噺家さんの控え室、そして二階が色物の楽屋となっている。今回は出番が近い為によく、林家ぺーさんとお話しをさせて頂く事が多くなった。15年以上前は上野にも随分ちょくちょく出演されていらっしゃったのだが、最近はあまり寄席は多くないらしい。それにしてもその記憶力は流石だ。様々な芸人さんのお名前が出るたびにその年月日を覚えていらっしゃるのだ。今週金曜日、ぺーさんはその芸名とひっかっけて吉祥寺のRock Joint GBにてオッペケペー節に乗せて様々なネタをされる予定でいらっしゃるらしい。(「平成オッペケペーlive」=開演19:00。問合せ:0422−23−3091)。川上音二郎のオッペケペーである。自分が川上音二郎を知っているのにぺーさんが驚かれていらっしゃったのだが、おそらく今の若者はほとんどその存在すら知らないのが現状だろう。今日はこの川上音二郎の話に楽屋話の花が咲いた。

オッペケペー節の川上音二郎。、実は川上音二郎とはこのオッペケペー節意外にも様々な先駆者的な顔を持っており、その分野の多彩さには脱帽したくなるほどだ。彼は自由党壮士であり、いわゆる壮士芝居をその生業としていたのだが、もともとは歌舞伎一座に加わったり、落語家として様々な寄席で例の「オッペケペー節」によって自由思想を謳っていたようだ。

彼のその奇を衒った手法は世の中をあっと言わせ、そして様々なブームを作り上げてきた。まずは古来の歌舞伎しか知らなかった日本の演劇界において「改良演劇西洋美談、斎武義士自由の旗揚」というものを明治20年頃に演じ、その斬新さを披露しようとしたことに始まり、日清戦争が始まると、その状況を劇化して伝える戦争劇、そして海外公演、帰国後の西洋劇の移入とシェークスピア劇連続上演による正劇運動(この正劇とはもともと森鴎外が言い始めたのだが、これに音二郎は飛びついて、様々な改良を目玉に大流行を起こした)、そして女優学校開校にいたり、はてまた児童劇興行と、その先駆的な実行力は常に流行を先取りし、日本の演劇の近代化に少なからず(様々な意味で)貢献した。

河竹登志夫先生によると、「一連の正劇の最大の史的意義は、内容の低さ粗雑さのゆえに、シェークスピアないし、西洋演劇のもっと真面目な、芸術的な移入への要望が、識者の間に高められたことではないだろうか」(『近代演劇の展開』より)

確かに坪内逍遥の日記やら著述を紐解くとき、上記の真実味が感じられる。学者であり、物事の細部の正確さに拘わる坪内逍遥が、そのいい加減さに腹わたが煮えくり返る思いをしていたのがそこここの文章に現れているのも面白い。このあたりから坪内のシェークスピア研究やら上演に急に積極的になるのもそれを証明しているように思える。人は様々な役割を歴史の中で演じているのをつくづく感じる。

(写真上は末広亭楽屋にて林家ペーさんと。下は川上音二郎)

2013-06-06 01:35 | つれづれなるままに | コメント(3)

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