リアルとは?

最近つくづく思うのは今まで人づてに聞いたり、見たり、そして書物を読んだりして学んだ事が如何にリアルさから遠かったかという事。演劇の戯曲を読んでいた時、例えばサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』、あるいは『エンドゲーム』などにはいつも核爆発(或いは核戦争)による終末的世界が描かれ、その中で閉塞感と絶望感がただよっていた。しかし、それを何時も意識の片隅において「あり得ない事」、「あり得てもおそらく自分の死後何百年、いや何千年後の事」として無意識に処理していた自分がいた。そしてその行為自体が、、この非アリストテレス的な不条理演劇(absurd drama) であってしても、戯曲の最後にはある意味でのカタルシスのようなものを若干感じていた自分がいた。もっと平坦な言い方をすれば、「いや、自分世の中ではコミュニケーションはとれているほうだよ」「遠い未来の末世にはこんな事もありかな?」こんな軽い受け止め方にて頭のどこかで(例えそれがある種の防衛的行為であるにしても)この閉塞感を処理していた。
だが、今、この放射能の大気の中にて、日々恐怖感と背中合わせの毎日を送っている自分がいる。まさに、その世界が現実化した時だが、このあまりのリアルさが、かえってリアルすぎて、目の前の現実を必死に現実ではないと否定しようとしている自分がいて、それが物凄く二重に非現実的(アンリアル)な事に驚いている。夢に決まっている。いや、夢じゃない。でも、これから私達はどこへいくんだろう。この目の覚めるような効果って、もしかするとアントナン・アルトーの残酷演劇の効果なのだろうか。たしかに頭上の天体が崩れ落ちてくるような、目を覚まされるような感覚でもある。このあまりにもリアルな中の非現実的な世界、これは果たして舞台上において表現可能なのだろうかと。

2011-04-05 01:36 | ひとりごと | コメント

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