ヴィゴツキーという学者が提唱した最近接発達領域(Zone of proximal development)という考え方がある。自分が初めてこの考え方に触れたのは博士過程の一年目の夏に心理学の集中講義を連続して受けた時だった。このとき自分の脳裏では私のマイムの師匠、モンタナロ氏の舞台上での演出的行為と重なって見える思いがしそして興奮したものだった。
まずは最近接発達領域だが、これは一般的に定義されているのは「学習者が一人でできることと、自分より有能な他者の手を借りればできることとの間の領域」のことを指しており、「有能な他者がうまく学習者の「足場をつくってやる=支援(scaffolding)」することで、その領域は縮まる」という事である。つまり学習者をそのまま放り出しておいて何のケアもなかったら、その学習者の本来の可能性(ポテンシャル)は育たずに終わってしまう事が多い。その学習者のレベルに合わせた適切な支援を適時に施してやり、その支援が必要なくなったときには自らの足で立たせてみるという、こうした交互の適度のバランスによる指導によりその学習者のポテンシャルが最大限に開発されるという事だ。
ほったらかしにされる・・・これは従来のマイムの舞台では顕著にみられた傾向であった。観客がどんな層であれ、どんな文化的背景であれ、どのようなタイミングで客席にいるかを問わず、マルソーの構築した「ユニークなタイトル表示のあとの沈黙の芸」・・・「後は一切想像しなさい」・・・これがマイム公演の定番であった。これが好きな客層にはたまらないくらいの知的創造力が喚起されるのだが、日本の伝統的文化背景やら、子どもの観客の年齢層、その他の条件によっては、このようなマイムは非常に難解でそして冷たい芸術として映る。なかなかなじめない、入り込めない。そんなイメージが日本であったのは事実だ。ところが自分が80年代に初めて渡米し、師匠のマイムの進行をみるとこの既成概念が見事に打ち破られていたのだった。最初に開演前にモンタナロ氏は必ずざっくぱらんに舞台に顔を出す。そして世間話から始まり、徐々にマイムのデモンストレーションを初め、グイグイ観客をその世界に引き込んでゆくのであった。一つ一つの作品の前に適切なスカフォールディングを行い、客が何を知っている事により、より想像力を喚起できるかを事細かにその話題にとりいれるのだった。だが、この魅力が何なのだろうと常に思ってはいたが別に分析する意志もなく、長年師事していたのだった。
ある日自分のバイオリン弾きという作品を舞台で師匠に見て頂いた後で批評を頂いたときに、以上の事がはっきり自分の理解として咀嚼され吸収されたのだった。師匠にとってはこの作品を子どもの前で演じるときに、仮面を独立させて想像させよとのことだった。この作品の最重要要素として「仮面」というマイムのテクニックがある。この仮面が理解できないとこの作品は満喫できない。この仮面というのは両手を仮面の形に固定して顔面に当て、そしてすばやくその手の裏で顔の表情を変えて固定し、手を離すと仮面をかぶったような錯覚を見せられる。大人ならばある程度わかるのだが、子ども、特に小さな子ども達にはこれがどのくらい仮面としてはっきり理解されるのかが問題なのだ。
そしてこの仮面が理解されなかったり、理解しようと色々「これは果たして仮面なのだろうか、それとも何か他のものか」という自問を作品の最中に観客がくりかえしていたりすると、マイムの全体の作品としての効果が鈍ってしまうのだ。つまりジェスチャーゲームのごとき推測ゲームとして終始してしまう。まさに「木を見て森を見ず』の世界・・・・これが従来のマイムの陥りやすいトラップであった。
そこでこの作品をやる前に私は必ずパートナー、あるいは自分で何気ない話題から初めて、徐々に思いで話などの中に「お面の思い出」という逸話を挿入し、ここで子どもたちにお面というマイム的行為のゲッシングゲーム(推測ゲーム)をやってもらってしまう。つまりここで仮面のテクニックを既に紹介してしまう事によって、次にくる作品の中の仮面を容易に受け入れ、その背後にあるより重要なコンテクスト(作品の文脈)を自然に追う事が出来るようになるのだ。ここにはすでに余分な想像ジェスチャーゲームの要素はなく、適所適所で子どもたちは自らの想像力にチャレンジを促される。
このような行為を舞台で行うようになってから、容易に大人用の作品を子どもにも見せられるようになったのだ。つまり子どもは文脈上それほど推測に時間をかけてほしくない箇所にはすでにその知識を持ち、適切な重要な場所ではそれ相応の知的チャレンジを受ける事ができるのだ。
もっともこのテクニックを最初にアメリカから帰国後見せ付けられたのが実に永六輔師匠の話芸であった。永さんの話芸は必ずこのテクニックが使用されていた。永さんの紹介する芸人さん達の、時に難解な内容も、一般的にいったら年齢層が合わないような内容も、必ず永さんのスカフォールディングがあると、観客のポテンシャルは最大限に引き出されるのだった。話しながら観客の層を読み、そしてその必要最低限のコーチングを施す。まさに落語における「まくら」の中の重要要素でもある。もっともこのような理屈抜きで噺家さんたちは肌でこのテクニックの必要性を感じ、経験によって習得しているのだろう。恐るべし話芸の達人も使っていたこのテクニック − スカフォールディング=足場づくりだ。
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