大学(少子化)の弊害

ショッキングなニュースを読んだ。読売新聞に「大学生の基礎学力の低下が問題となる中、埼玉県の県立高校が来年度から、提携先の大学生を聴講生として受け入れることになった。」とある。ついにここまで来たか。大学生が高校のクラスを受けなくてはならない。いや、ややもするとそれどころか高校生以下の学力というケースもあり得る。かなり以前から大学の中には授業の一環として「算数」やらその他の基礎学力を学びなおす内容がかなり導入されていたと聞く。空いた口がふさがらない。もっともそれを正面から受け止めて対策を講じている方がマシなのだろうか?なぜならば、このような学生達を甘やかして卒業させてしまう大学が多く存在するのも事実だからだ。文部省はもう少し大学の質を厳しくチェックするべきではないか。
諸悪の根幹は大学の数と子どもの数の不均衡であるのは明瞭だ。現在では700以上ある大学の約半数が定員に満たないと言われている。その各大学が「経営上の都合により」募集人数をはるかに下回る子どもたちの青田買いに躍起になっている。いや、正確に言うと青田買いという言葉は以前は優秀な人材をあらかじめ確保するという意味に使われていたはずだが、現在はその質は殆ど問われない。とにかく募集人数を満たすだけの頭数合わせとしか思えないような入試がまかり通っている。(内容の伴わない)推薦入試、面接だけ、あるいはとにかく学科を受ける通過儀礼をこなせばめでたく合格!なんていうのはざらだ。電車の中の公告はまさに大学学生募集一大キャンペーンで花盛りだ。まあ徐々に大学自体が自然淘汰はされていくにせよ、そのプロセスの間に無作為に「かき集められる」大学生の質の低下は甚だしいものが当然予想される。それよりもっと凄いのは在籍するのが海外からの「留学生」という名の元で、その実態は入国ビザを取得して日本でほとんどを労働についやす、「出稼ぎ人」達の集まりというケースも多々あるらしい。
かつて都市銀行がそうであったように大学も早く淘汰されてゆかないと、このままではこの国の学士は世界で通用しないものになってしまう。いや、もうそうなっているのかもしれない。かつてアメリカで学ぶ日本人留学生は英語力では劣っていたがその数学力などではアメリカ人を驚愕させるような実力があった。(数学がさして得意でない自分でさえ、SAT,GREといった大学、大学院入学の為の共通試験では数学で点を稼いだものだった)ところが今はそういった日本人の実力さえも影が薄くなっているらしい。もちろんこういった学科の実力だけが人生の生きる力ではないのは十分承知している。だが、しかし、やはり日常の読み書きを考える時、やはり携帯でしか文章を書かない若者、携帯小説などのライトものしか読まない彼らの思考能力はかなり限界があるような気がする。
日本語能力が低いゆえに英語力に関してもそうだ。海外に目を向けると、ハーバード大学の学部には中国や韓国から何百人という物凄い数の留学生が在籍しながらアメリカのエリート達と切磋琢磨しながら学んでいる。こういった彼らが将来自国の外交などを担うエリートとなるわけだが、悲しことに日本人の数は極端に少ない。正規の学生は実に10人にも満たないらしい。(これはあくまで自分がケンブリッジに住んでいた四年程前の情報)。元来の外交音痴である日本の将来を思う時、この外交力の差はどんどん広がってゆく気がする。
基礎学力、これは国力と同じだと思う。それがないがしろにされているこの大学制度は一体これからどこへ向かってゆくのだろうか。実に少子化という問題は経済力という以外にも国力維持に色々な側面から影を落としているようだ。

2010-05-15 07:56 | ひとりごと | コメント(1)

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