麻痺するということ

人は刺激に対して鋭敏でいられるのはほんの一瞬なのかもしれない。だから人生の喜び、素晴らしさでさえも一瞬は感じられるが、すぐに他の興味をひくものに心奪われて貪り出してしまう。その結果再び心は修羅の如くさまよい始める。人間の悲しいサガか。いつも心をもとの位置に引き留める。暴れ狂う欲望という馬をたずなにより一定の場所に引き留める、これがヨーガの語源であるyuj (ユージュ)という言葉の意味らしい。
そして喜びや楽しみばかりでなく、おごり怠慢、またはそれに対する罪悪感などもそうだ。きのうの選挙の結果はまさに如実にそれを物語っていた。一般庶民が毎日のように食べたり飲んだりするものの価格さえも知らないで贅沢な飲み食いにうつつを抜かす政治家たち。いや一生そんな事に関心をしめさないでもよいような特殊な世界に生まれ育ち、感覚がどこか庶民と違う人種の集まり。母子家庭のもつ金銭的な苦しさ、非正規雇用の不安など想像できるような素地がもともとない。そして思うがまま、慣習のままにそのおごりがいつまでも続くと信じて制度の上に胡坐をかいていた完全にマヒした感覚。永田町の論理などという言葉さえ陳腐に軽くなってしまう。
落選したり、また落選しそうになって復活した議員がいう、これからは初心にもどって云々。はて、今までそんなこと口にもしなかった人々が落選を目のあたりにして初めて思いだす言葉。なんだか覚せい剤で捕まった後にごめんなさいと謝る人々に似ている。それまではさんざんやってきて捕まったとたんに反省する。つまり捕まらなかったら今でも反省どころか、やりたい放題。
今度選ばれた民主党の面々だってそんな特殊階級がたくさんいる。少し勉強してほしい。大多数の人々がどんなものを食べ、どんなことに日夜苦労し、そしてどんな娯楽をどのようにしてあじわっているのか。これ当然のことだと思うが。
隣でまた息子が意味も知らずに暗唱する。「おごれる人も久しからずただ春の夜の夢の如し。」

2009-08-31 06:42 | ひとりごと | コメント

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