永六輔師匠と


今日11日、朝から早稲田の修士論文の副査を依頼されて大学へ向かった。午前中口頭試問を終え、午後から通常のクラスに向かう。なぜか消音にしていた携帯が鳴り続いていた。授業の合間の休憩時間に携帯をみて唖然とした。永さんが亡くなったというニュースを多くの方々が私に知らせるべくメールや電話をいれてくれていた。いつかは来ると覚悟はしていた。やはりその時がきたか。

永さんとは86年からのお付き合いだからちょうどカンジヤマ結成と同じ30年になる。永さんがいらっしゃらなかったら今のカンジヤママイムはなかった。少なくとも自分はそう断言できる。だから今日は本当に特別な日なのだ。永さんの話が無性にしたいのだ。だから今日は自分の好き勝手に話を続けさせていただきます。話は遠回りに長くなるが、今日はあえて回想しまくるつもりです。いや、しばらく続くかもしれません。永さん、ありがとうございます。本当に、本当に!!

そもそも31年前、アメリカより帰国したまでは良かったが、マイムの仕事など全くなかった。マイムに対する認知度はまったく日本にはなかったといってよい。そんな日々を鬱々として過ごしていたのだが、ある日決断し、日本にいらっしゃる芸人さんの芸をとにかく盗すませて頂こうと決意した。まずは国立演芸場へ先代の雷門助六師匠の操り人形を見に行った。当時(先代の)助六師匠は既に膝を壊されており、あやつりはやらなかった。楽屋へ押し入り、伝統芸能のしきたりを知らない恥知らずの若造は師匠に「操りを教えてください!」と直にお願いした。(今から考えると赤面ものだ)勿論教えてくれるわけがなく、丁重に断られた。が、しかし、演芸場から新宿行のバスに乗り込もうとしたら、偶然助六師匠が乗り込んでこられ、二人きりになった状態で、やさしく、いろいろ断片的なアドバイスを下さったのだ。そしてあとは自分のビデオが出ているから見てみなさいと予想外の展開となった。今でもその時の助六師匠の優しい表情を覚えている。その後、今度はマルセ太郎さんの猿の形態模写を盗むべく、マルセさんを追いかけて渋谷ジャンジャンへと通った。そこで目にしたものがマルセさんを紹介する永さんの話芸であった。

その時はマルセさんと一緒に確か伝統芸能の音楽家の方がゲストとしてでており、私は正直なところ多少退屈な予感がしていた。ところがいざ永さんがそのゲストの皆さんの紹介を始めるやいなや、なんと不思議なのだが、早くその演奏を聴きたいと前のめりになってしまった自分に気づいたのだ。なんだこりゃ?!永さんが紹介するとなんでこんなに興味がわくのだろうか?衝撃的な経験だった。当時マルセさんも既に「スクリーンの無い映画館」という新しい芸を始めており、サルはやらなかったのだが、それよりも私は永さんの話芸にぞっこん惚れ込んでしまったのだ。逆説的かもしれないが、今、日本のマイムに必要なのはこの人を引き付ける話芸ではないか!?と!!もしもマイムがこれだけの話芸を身につけられたらマサに向かうところ敵なしだ!と。

それからというもの毎月毎月永さんの主催するジャンジャンの10時劇場に通い詰め、終演後マネージャーの方にお願いして必ず自分の学んだ事をお伝えし、感謝しつつ、一年半、永さんに手紙を書き続けた。当時永さんは売れっ子で、とてもじゃないが私など相手にしてもらえる雰囲気ではなかったのだ。そして一年半たった時、突然永さんからハガキをいただいたのだ。たった一言!「あなたのパントマイムみたいです。次回僕の舞台45分お任せします」と!!

その次の回、ジャンジャンで永さんの前でマイムを披露するチャンスを得たのだった。終演後、「一緒に旅しませんか?」とお誘いを頂いた。天にも昇る気分だった。この方、話芸の天才と旅ができる!!

それ以後、全国の町おこし、村おこしのお手伝いをさせて頂きながら、常に舞台袖で永さんの話芸を堪能した。次々に出てくるわ、出てくるわ凄い話芸の引き出しの量!!最初はとにかく唖然として観客と一緒になって大笑いしているしかなかった。凄かった。手変え品変え、その場所その場所によって同じ話を全く違った演出で話される。言葉の間もすごかった。言葉の順番にも意味があると知った。でもその時は無我夢中でそんな分析などできなかった。

そしてある時は一緒に旅させて頂いた柳家小三治師匠はじめ、凄い噺家の師匠の袖で色々伝統芸能の仕来りなどを永さんは何気なく教えてくださった。このように永さんとの旅は始まったのだった。今から30年前の事だ。つづく

2016-07-11 09:57 | つれづれなるままに | コメント(2)

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