文科省の気まぐれ

文科省は「ゆとり」を目指した学習指導要領を全面改定して2011年度から小学校で使用される教科書の基準を平均で約25パーセント増やすという。一体今までの「ゆとり」の弊害の責任はだれがおとりになるのだろうか?一時は円周率が「3」と教えられた子どもたちもいる。そして今度は平均でこそ25%だが、教科によると30~40%近く増えている科目内容もある。この極端な改訂の負担はすべて直接先生たちや子どもたちの学校生活の質にかかってくるだろう。つまりこれらの教科以外の芸術に触れる機会だとか、人間関係を築く時間などがすべて削られてゆくのは明確だ。EQ(心の知能指数)がまたおろそかにされている。そして今度の方針の責任者はどなたなのだろうか?
確かにゆとり教育と呼ばれた時期、その目玉であった「総合的な学習の時間」などの使い方がまったく見当違いな所も多々あったし、結局は補習のような事をやっていた学校が多いと聞いている。つまり「勝手に自主的に考えて」という事が出来ない国民なのだろうか?「他校はこんなことやっているのに、うちはこんなことしていてよいのだろうか?」典型的な意見が聞こえそうな気がする。だが、やはり本当にゆとり教育をしたいのなら、時間をかけなくてはできるわけがない。最初から自分で考えろといったのなら、考えられるまで待たねばならないのでは?あるいは考えられる手助けをしなくてはならない。それとも「やはりうちの国民は自分で考えられないから~~やらせなくてへ。」あるいは「やはりゆとりなんてくだらないから~~」というわけではあるまい。
ただ今の問題は教科内容の量よりも質のような気がするのだがどうだろうか?つまりたとえば算数や数学ができないのは、あるいは嫌いなのは実は算数なり数学なりの問題自体が解けないのではなく、まずはその文章の内容が(つまり日本語が)分からない、完全に理解できない子が沢山いるのが現状だと、元杉並中学校の校長、藤原和博さんに伺った事がある。つまり基礎力固めが先決なのだ。自分の気持ちを言葉にするとか、誰かどうにか伝えるといった基本的な能力が欠落すると人は切れる。自分の中の鬱積した感情をどのように発散したりするか、このような事が現在の世の中ではより大切ではないのか?だとしたらいたずらに教科内容量を増やすことによってより生徒たちのストレスをためることにならないか。いわんや、学校での科目の内容量が増えるという事は余計に入試内容にそのしわ寄せがくるということだ。では翻って学校が科目内容量を増やしたことによって、その学校の授業をきちっとうけていれば受験勉強は大丈夫なのだろうか?否である。その分学習塾の時間も増やさなくてはならないという結果は一目了然だ。文科省はここのところがまったく分かっていらっしゃらないようだ。文科省の皆さんはやはり最低5年は現場にいらした方がよろしいのでは。肌で感じなくてはね様々なストレスやら問題などを。まずは自らが課した基準を自らがこなしてみよう!!

2010-03-31 06:42 | ひとりごと | コメント

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