採点地獄と墓参り

今は朝から晩まで試験の採点に取り組んでいる。目が痛い。特に英語のハンドライティングは癖があると本当に読みにくい。目薬さしながらの格闘。そんな中、渡米のためにお盆に行かれない墓参りに行った(地元は旧盆なのだ)。なぜか実家は臨済宗と真言宗(豊山派)の二つの寺に墓がある。雨がしとしと降る中を傘はささずに久しぶりの墓参り。息子が「のんのさん」といって手を合わせる姿がたまらなく嬉しい。
お線香をお願いしに寺の入り口でご挨拶する。実はその昔、確か高校生のときだったと思うが、私はここの坊さんにかなり難題をふっかけたことがあるのだ(ご本人は覚えていらっしゃるかどうか・・・)血気さかんだった若いころは仏教を一生懸命自分なりに解釈しようとさまざまな仏典やら解説書を読んだ。そこで戒名とは、つまりキリスト教でいうクリスチャンネームのことだと気付いたのだ。ところがキリスト教の場合は「私はイエス様のお弟子になります」と宣言することにより、つまり生きているときにキリスト教に帰依する(これは仏教用語だが)事を示す為に頂く名前なのだが、なぜか仏教の戒名(宗によっては法名、法号ともいうが)においては死後の成仏の為のものという概念が日本にはある。それも何十万,何百万円というお金を出して、しかも其の金額により院号、あるいは位号などという差別化を図る行為が日常茶飯事になっている。なんだ?これは?もともと仏教とはカースト制度を標榜するヒンズー教に対して全人間の平等を説いた宗教ではなかったのか?しかも戒名というからには仏教の戒律を守りますという戒を授かるからこそもらえるものであり、お金で買うものではないはず。では貧乏人は成仏できないのか?そしてもっと言えば坊さんとは出家した人間、つまり俗世間のあらゆる欲を断ち切った立場で自らが修行に励み、その生活のために一般の人々がお布施という施しをするはずではないのか?(もっともこれは浄土真宗の教えは例外ではあるが)。それが肉食をし、酒を食らい、女を抱く、おおよそわれわれ凡夫と変わらぬ生活をしながら仏教の戒律を無視し、ただ単に其の家に生まれたから宗教法人としての特権を許されるとは!!!・・・といきり立って直接訪ねて質問をしたのだった。まあ、今から考えると赤面ものだが・・・こんな事して本当に周囲に迷惑かけてきたのだった(大汗)・・・一つインドに実際に行って思った事。戒名のもう一つの意義。彼らは名前を言うと、ずばりそのヒンズー教での階層がはっきりわかってしまうのだ。だから戒名とはその階層を隠してしまう為のものでもあったのだろう。
さてさて、今日はこれから流山市での英語とマイムのショーだ。出国前の最後の舞台!!やるぞ~!!

2008-07-19 10:09 | つれづれなるままに | コメント(2)

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