禅の公案にみる教育演劇のエッセンス

先日大学の授業にてダニエルゴールマン著「EQ−こころの知能指数」を久々に学生と一緒に読んだ。学生に一番印象に残った話をきくと、一人がゴールマンが引用した禅の公案からの話を選んだ。ほとばしり出る人間の情動をいかにモニターするかという「メタ認知」についての例なのだが、以下引用する。
   血気にはやるサムライが禅僧に、地獄とは何か極楽とは何か、と問う。しかし禅僧はサムライの問いを一笑に付す。「この無骨者が。お前なんぞに関わる暇は持たぬ」。
   対面を傷つけられたサムライは激怒し、刀を抜いて大声をあげた。「無礼な!切り捨ててくれる!」。
   「それを地獄と申す。」禅僧は静かに答えた。   
   怒りに狂った自分の心をズバリ突かれてわれにかえったサムライは、刀を鞘におさめ、禅僧にむかって一礼した。
   禅僧はふたたび口を開いた。「それを極楽と申す」。  (講談社α文庫、土屋京子訳より)
今までも禅の公案は大好きで何百という公案を読んでおり、これもまた有名な話の一つだが、あらためて芸術教育の授業のなかにてこれを読み返すと、本当にみごとな教育演劇のエッセンスが詰め込まれているものだと感心した。観念ではなく、実際に本人に体験を通じて、ものごとの本質を教え諭すという手法をとっている。釈迦の悟りを言葉ではなく、概念ではなく、すべて体験によってそれを諭そうとする不立文字の禅だからこそ出来る教育なのであろう。(でも、その前に禅僧が刀で切られちゃったらどうしよう?笑、怖っ!!)
イギリスの教育演劇の先駆者ブライアン・ウェイが用いた似たような例がある。何千、何万という言葉を駆使して子どもたちに「目の不自由な人々」について語るよりも、たった一度、彼らに目隠しを施して歩かせてみるほうが、より現実的な知識の体得ができるということである。彼はこの例を頻繁に教育演劇の基本的な概念例として使っていた。人の痛み、あるいは地獄的な状態、これらの概念は経験した人間がおそらくいままでにも出来る限り多くの工夫をもちいて言葉で表現してきたことであろう。が、悲しいかな、人間の言葉の限界とはそんなものであろう。しょせん感じられないのである。身内、あるいは本当に愛する人が亡くなることにより、初めて死の重さを知る。これは人間のおろかさなのであろうか。いや、そうでもない。実際に周りの痛み、苦しみをすべて背負い込んでは生きていけなくなる。周りだけではない、自分の過去の痛み、苦しみでさえ、それらをそのまま背負い込んでいたら到底その重さだけで人は前に進めなくなってしまうだろう。
しかし、やはり重要な事はこうしていつも自分たちに新鮮な体験として保持していかなくてはならない事もたくさんある。とくにそういったポストについた人間ならば余計だ。
本当の貧困、身近な人間の戦争における死、これらを是非政治家、官僚に教育演劇の手法によって体験していただきたい。戦争の最前線に自らの愛する子どもや配偶者を配置し、そしてその痛みを体験してみてもらいたい。またそういった経験のない人間には絶対に政治をつかさどってほしくない。そんな苦しみしたことないから途中で投げ出したりする首相もいるし、どんどん貧民をイラクに送り込む大統領がいるのだろう・・・今日はなぜか、こんな飛躍してしまった。
昔の漫画を思い出していた。小学生のときに大好きだったサイボーグ009.彼らの最大の敵は「死の商人、ブラックゴースト」だった。それが今でも実際にどうどうと暗躍しているし、多くの官僚、政治家は私利私欲のためにそれに群がっている。でも死の商人は現存しても009は現存していないのだ。もし存在するとしたら、それはこれからの教育のなかで、多くの若い子ども達のなかから009をたくさん排出できるようにしてゆかなくてはならないのだろう。009の仲間達はそれぞれに人生に傷をおっていた。だからこそ様々な敵にも共感できることがあり、苦悩しつつ敵と戦う。・・・・話がかなりそれちゃった(苦笑)
禅、この素晴らしい知恵が様々な分野でどんどん生かされる事をのぞんでやまない。さて、そろそろ自分も坐るかな・・・・・
 

2007-11-01 11:31 | ひとりごと | コメント

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