岐阜~愛知~三重、そして・・・

九月の旅が続いている。まずは一日に岐阜の美濃太田に宿泊し、そして連日、文化庁事業のワークショップ、そして公演。初日の宿泊地、美濃太田。ここは以前ブログにも書いたが、我が心の師の一人である、坪内逍遥先生の生誕の地。そう、先日訪れた、イギリスのストラットフォード・アポン・エイボンが沙翁(シェークスピア)の生誕地であり、ここ、美濃太田がその沙翁の全戯曲の単独訳を初めて日本で成し遂げた逍遥先生(本名坪内雄蔵)の故郷。ストラットフォード・アポン・エイボンで走って、ここで走らぬ訳にはゆかぬ(笑)。翌朝五時半に起き、携行しているランニングシューズを履いて街を一時間ちょっとランニングしながら要所要所を尋ねてみた。

早朝、木曽川沿いを走っていると、何とも言えない涼しさと朝日だった。(因みにホテルに帰り、シャワーを浴びているといきなりの大雨!!早起きは三文以上の得だった)。美濃太田駅前には逍遥先生の胸像、そして木曽川のほとりに様々な逍遥先生由来の場所が散在している。今は太田小学校となっている場所は、以前は太田代官所跡。当時は代官所の役宅も此処にあり、逍遥先生の父は代官所手代で此処の役宅が逍遥先生の生家。この地での様々な思い出は『逍遥選集』の中でたくさん綴られており、多くのドラマがあったようだ。

その一つ。時は幕末、明治維新の前夜、尊皇攘夷派の一連が中山道をたどり、この地に入ろうとしたとき、幕府直轄領であるここ太田の代官所上席手代であった彼の父、平之進は、この一行の扱いを一任されたという。果たして全面衝突し、徹底抗戦するか、もしくは・・・。全村民の運命が彼の判断に委ねられた緊迫の瞬間であった。結局、村人の安全を思った平之進門はこの一行を黙認する形で通し、多くの村人が列を作って立ちすくむ中、志士達(おそらくは水戸の天狗党の一行と思われる)は列を作って通り過ぎて行ったという。そしてこの道脇から尊王の志士達を見つめる多くの村人たちの中に、当時5歳だった雄蔵少年がいた。後に彼は、自らの回顧録に当時の事を綴っている。その一行が通過した時、その中の隊士の一人が雄蔵少年を見つけ、突然歩み寄り、「大きくなったら立派な人になれ」と声をかけられ、頭を撫でられたそうだ。その他にも演劇体験に関する思い出話がたくさん出てくるが、そのいくつかが私の博士論文の決定的な結論を後押ししてくれたのだ。

現在、太田小学校内には「山つばきの部屋」と呼ばれるいわゆる「逍遥資料館」のようなものが設置されており、誰でも自由に見学できる。学校正面には「逍遥公園」なるものがあり、「逍遥顕彰碑」なるものがある。最後に彼がここを訪れたのは1919年の事だという。子ども時代によく遊んだと自ら懐かしむ虚空蔵菩薩堂(弘法堂)の裏手にある大きな椋の木のもとで、妻のせんさんと共に記念撮影をしている。

旅の始まりはこんなランニングを兼ねたちょっと素敵な小観光で始まった。その後、岐阜から愛知は瀬戸、そして豊明とめぐり、最後は三重の松阪高校文化祭にお招きいただいた。ここでも素敵な出会いがたくさんあった。これはまた別の機会に!!(写真上から順に:美濃太田駅前の胸像、逍遥公園内の看板、木曽川沿いのジョギングロードより)

 

2013-09-07 06:17 | つれづれなるままに | コメント

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