ママコヨネヤマ

先日下北沢にヨネヤマママコさんのマイムの会を観にいった。降りしきる雨の中早々と小劇場の入口には列ができていた。百人足らずの客席がある地下の会場はまっ正面に柱がどんと控える、まるで在りし日の渋谷ジャンジャンのようであった。開演遅れること約20分、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた客席はかなり年齢層が高い事が感じられた。当然だろうな。若い人はママコさんの名前すら知らない人が多いと思う。
しばらく二人のミュージシャンによるジプシー音楽なるものを聞かされたのち、ママコさんによる作詞作曲のソングマイムが始まる。山に住むおじさんを楽しみに訪問する少女。そのおじさんの庭に戯れ、おじさんの盆栽を身体で表現し、のどかな田舎の山の景色が描写される。やがて彼女が成長し、新自由主義経済に翻弄されて堕落し、無機質になってゆく社会とオジサンと過ごしたよき古き時代を比較しながらその悲愴な思いを叫ぶ。  基本的にママコさんのスタンスは三十数年前と変わっていなかった。 最初の山登りのシーンは彼女の著作「砂漠にコスモスは咲かない」の冒頭の少女の希望にあふれて駅を目指して走る姿に重なった。そういえば、昔彼女の「空を飛ぶ男」という作品が好きだった。やはり歌いながらのソングマイムで、今は父親になった中年の男がその昔、子どものころよく戯れた幻想の世界に登場する「そらを飛ぶ男」を回顧し表現する。いや空を飛ぶ男は彼自身だったのかもしれない。そして、やがて成長するとともにその男の存在は消える。過去に対するノスタルジー賛歌ともいえるこの作品は、実に美しいメロディーと歌詞でつづられており、聞くたびにファンタジーの世界に引き込まれていたのがマイムを始めたばかりの自分だった。(たしか作曲はいずみたくさんだったと記憶している)
その後の「ウェイター」という作品も過去に見たもので、実に無駄を省いた絶品だ。ウェイターをホールと厨房を境にその性格の二重性をデフォルメしながら、人間の本質に迫る。確かこの作品は彼女の滞米中の創作の一つだったと記憶している。(それが証拠にウェイターのチップを表面では(片方の手で)遠慮しながら心底で(もう片方の手で)要求するという仕草は日本人には今でも少々異質な感があったような気がする) しかし、彼女の若いころの創作意欲に満ち溢れた作品と、現在の社会を憂う長老としての作品がよくも悪くも非常に対象的で面白かった。
結局ママコさんによるマイムはこの二本のみ。あとはジプシー音楽の連続で、少々狭い席に固定された足腰に痛みを覚えた。結局舞台は1時間のみ、そしてこの条件で入場料の5000円はちょっと高めかも!(苦笑) と思いつつも自分自身が歩んできた道を振り返り、ノスタルジーにその身をゆだねた一時間だったような気がする。しかし、相変わらず70ん~歳の御歳であれだけのきれいな洗練された動きを見られたのは嬉しかった。ヨネヤマママコ、私の一番最初の師匠でもある。
さてさて今日はこれから日本橋亭でのゲスト出演。初めて日本橋亭でのマイムじゃ~!!

2009-05-10 08:07 | ひとりごと | コメント

メモリアルサービス

昨日は雨の中、母校の高校のチャペルで恩師のメモリアルサービスに参列した。この二か月でメモリアルサービスで親しい方を送るのは二回目。しかも今回も先生はなんとまだ58歳。自分が高校生の時赴任していらしたばかりのいちばん若かった先生だ。とにかく笑顔の印象が最高の先生だった。二年半前、母校で舞台を依頼され、約30年ぶりに訪れたキャンパスで最初に出迎えて下さったのもこの先生であった。顔をみるなり、いきなり笑いながら一言!「いや~、お前の数学の答案用紙、採点するのが本当に苦痛だったぞ!しかしお前、本当に字が汚かったな~」 ・・・嬉しかった・・・何千人と送ったはずの多数の生徒達の中でこんなことまで覚えてくださっていた! サービスの間もいろいろな事が思い出されかなりつらかった。お会いできる方々にはなるべくお会いしたい。いつもそう思っていても人生ままならない瞬間の連続で、そんなことをやっているうちにどんどんどんどんと時間は過ぎてゆく。今をとらえてかみしめてゆかねばならないと思った。帰りに英語部の顧問であった恩師の先生がたとお蕎麦をごちそうになって帰宅。ホットした瞬間、なんだか本当に体に疲れが感じられた。
夜、傍らで風呂上がりの三歳半の息子が最近覚えた「奥の細道」の冒頭部分を意味も知らずに、舌たらずのあやうい発音ですらすらと暗証している・・・「ちゅきしは、はくたいのきゃきゃくにしゅて、いきこうとしゅも、またたびびとになーり~~」(月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり・・・) かの芭蕉翁がおっしゃるとおり、実に人生毎日の日々が本当に旅だよな~・・・若かったころは概念でしかわからなかったが、最近つくづく実感するようになった。「予もいづれの年よりか片雲の風にさそはれて、漂白の思ひやまず・・・」

2009-05-09 07:22 | つれづれなるままに | コメント

自己責任と自己義務を考えた

久々に映画を二本立て続けにみてきた。渋谷にて「キングコーン」というトウモロコシの行方の実態に迫るドキュメンタリー映画とイーストウッドの「グラントリノ」。両方とも見ごたえのある映画だったが、特に最初のキングコーンはアメリカの中西部でなじみの深いトウモロコシ畑になる何十万キロという膨大な量のトウモロコシが生産者の手を離れてからどんな形になって人々のお腹に至るのかを追ったものだった。驚くべきことに、今私たちの細胞のほとんどはトウモロコシのDNAで成り立っているという(少なくともアメリカ人は!!)それほどに細部にわたりこのトウモロコシが日常生活に微細な形に姿をかえて浸透しているのだ。たとえば牛肉。今までに狂牛病などは注目を浴びているが、実際に健常な牛でさえ様々な問題を抱えていることに驚嘆した。つまり過去には牛は放牧の中で草をたべながら生きてきたのだが、実際今現在の牛たちはそのほとんどの食料がトウモロコシでできているという。そしてこれをある一定期間以上食べさせ続けると、その牛たちはストレスのせいで胃潰瘍になるとか・・・・いわんや胃潰瘍にならなかった牛でさえ、その肉の成分は飽和脂肪酸(Saturated fat)で満ちあふれているという。つまりもう自然の食物体系でそだった牛は少なくともアメリカでは希有な存在らしい。その代り大量に廉価に生産できる、まるで物のように・・・・それがマクドナルドやその他のファストフードのハンバーガーとして廉価な肉がでまわるようになっている理由だという。これなら人間のDNAがトウモロコシでなりたっているのが納得できる(苦笑)。
あるいはその姿をかえたもうひとつの例として、一般的なソフトドリンクに使われている甘味料として、いわゆるコーンシロップと表示されるものはすべてこのトウモロコシを化学薬品などで調合したものだという。その種類の多さにもびっくりだ。ほとんどの加工食品の甘味料に使われている。そしてその代表例がソーダ類の甘味料であり、毎日のようにソーダを飲むアメリカ人の腹に浸透し、肥満の大きな原因になっているという。だいたい化学肥料と大量の化学農薬による大量生産したコーンの種類はそのままでは食べられたものではないらしい。本当にまずいのだ!!実際に作っている農家が一切自分たちの生産したコーンをたべないと平気でいっていた。
・・・と視点は一転して、日本に於ける私たちの日常でのケースになるのだが、この映画をみていて感じたことがたくさんあるのだが、その一つはこれだ。たとえば自動販売機が金銭的に儲かるからと言ってそれを経営している人々がこのコーンシロップの弊害をどのくらい認識しているだろうか。資本主義の世の中では物の価値はそれが如何に金銭として蓄えられるかのみに主眼が置かれているから、これらの弊害について真面目に考える人は少ないと思う。しかし、今マスコミで言われている自己責任を裏返せば、逆に人に物を提供する立場から言えば、自己義務というものの考え方が生じて当然なのではと思ったのだ。自分たちが提供する品物、あるいは概念が他にどのような影響を実際に及ぼすのかをしっかりとどこまで認識しているかという問題だ。自分たちが気軽に「もうかるから」と設置した自動販売機で売られるソフトドリンクがその成分によってこれからの若者の身体をむしばむという事実をしっかりと認識しないとならないと思う。そんな思いが込み上げてきた。他人ごとだからとたかをくくっていると、それが巡り巡って自分に返ってくるのは確実だ。
何もこれは製品ばかりではない。最近無責任な芸人がマスコミ上、あるいは、コンサート等で無責任な発言やら風刺をしているのに腹が立つことがある。いったい自分がしている芸が受けるからという理由のみで全く深い思慮を欠きながら無責任にその芸を売ろうとしていることがどのくらい罪深いことなのか。自己責任に対する自己義務。これは本当に規制できない事であるからに余計に難しいことだとおもう。自らをも顧みながら映画の最中にこんな事を本当に感じた。それにしても恐るべしトウモロコシ!!

2009-05-07 12:18 | ひとりごと | コメント