消えゆく街の書店


先日東京新聞に全国で書店がゼロという街が増えつつあるという記事が載っていた(8月12日東京新聞オンライン版)確かに最近はアマゾンなどのオンラインの本屋さんで本を買い求める傾向が増えつつあるようだ。同記事によると「今年五月現在、全国の自治体の17%にあたる三百十七市町村が(書店ゼロ)。五年前より八市町村増えた。」のだという。これは大変な現象だと思う。今後売れる本とそうでない本の「格差」がどんどん拡大するという事だ。大手の公告費をふんだんに使ったり、スキャンダル本だったりといったマスメディアに取り上げられる本ばかりが売れる事になる反面、内容的に優れた本でも弱小出版社から出ている本は決して注目を浴びない。(もっともブログなどの個人的な評価は確かに期待できるのだが、それも限られている)本の価値がそう言った公告のみで判断されるとしたら、今の流行している歌の状態といっしょになる(と自分は思っている)昔は良い歌だったから流行った時代があったと思う。だからこそ、今も歌い継がれる歌が多い。だが、ここ最近のヒットはプロダクションだったり、広告代理店によって作られたヒットのような気がする。CD売り上げはすでに曲の質ではなく、イベントの参加権利としてのチケットと化している。だからヒットした曲が必ずしも良いとは決して断言できない、いやそれどころか最近のヒットで将来残って歌い継がれるものがどれほどあるのかと考えると、どうも不安になる。計らい事によって生み出されたヒットには内容は伴わない。
本も一緒だと思う。今後マスコミによって増刷!!何百万部!!といったうたい文句で売られる本のどれくらいがその内容を伴っている事か。従来の書店には、計り知れない冒険のようなワクワク感があった。本屋をぶらつく事で思いもよらない「出会い」があった。予期しない収穫が書店散策にはあった。自分もそんな出会いを求めて書店をぶらつくのが大好きだった。個人が実は心の底で読みたかった本が意識せずに偶然に見つかる事がある。そして時にはその出会いがその人の人生を変えることがある。こういった現象が書店の消滅により無くなっていくとすれば悲しい事だと思う。
自分は論文を書いている最中も国会図書館のような閉架式(closed archive)の図書館よりも、開架式(open archive)のものを好んだ。そこには思いもよらない発見、偶然の出会いがあったからだ。目指す本の隣、あるいは周辺にその目指す本よりも物凄い発見が沢山あったのだ。これは開架式でなくては味わえない経験だ。例えば、国会図書館では日本の明治、大正の新聞記事は一回に付き三紙までしか閲覧できないし、その度に一々自分の名前から住所までを申し込み用紙にサインしなくてはならない。つまり一日に読める記事は限られていた。ところがハーバード大学の図書館では開架式になっており、一日中自分で好きに何紙でも目を通すことができたのだ。そしてそこには思いもかけない発見があった。
書店にも同じような可能性が秘められている。頑張れ!!街の本屋さん。皆さん、書店に通って沢山発見しましょう。(写真はハーバード大学の本屋さん)

2012-08-16 09:58 | ひとりごと | コメント(2)

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